ネットのニュースで「美人シングルマザーが刺殺」というタイトルの記事を見かけた。まったく悲惨な事件で、被害者のご冥福を祈るばかりだが、語りたいのは事件の内容ではない。

折りに触れて、「美人」という文言が新聞やネットの記事に盛り込まれているのを目にすることがある。確かに亡くなったシングルマザーの写真を見る限り、記事を書いた記者が「美人」という言葉を文中に盛り込みたくなったのもわからないではない。しかし、これが「美人」ではなかった場合は、記事には単に「シングルマザーが刺殺」と書かれるわけで、これはちょっと問題ではないかと思うのである。

その人が美人かどうかは、それを評する側の主観の問題であり、ある人には美人でも、ある人には不美人という場合があるからである。百歩譲って、誰が見ても美人と思える場合であっても、単独で見ると違和感はないかもしれないが、同じような事件が二件あり、片方の被害者は美人で、片方の被害者は不美人であった場合、片方は「美人シングルマザー」で、片方は単なる「シングルマザー」と表記されるとしたら、後者の被害者に非常に失礼になると思うからである。

わたしは必ずしも美人コンテスト否定論者ではないが、そちらはイベントとして許せても、公的なメディアにおける表記においては「美人」という文言は使用しない方がよいと思う。あくまでも客観的にその人の社会的立場を示す言葉があればよい。もちろん、殺害された被害者が美人だったか否かは事件の本質に迫る重要なポイントである。今回の事件の場合、そのシングルマザーが美人だったからこそ、付き合っていた加害者の男は女に執着し、殺害に至った可能性があるからである。しかし、それは言葉として提示されるべきものではなく、写真として提示されて後は読者が想像すればよいことである。その人が美人か否かの価値判断はこちら(読者)がすることである。

もっとも「美人」という言葉は魔法のような言葉で、その言葉を聞くと大概の男は無関心でいられなくなるから、記者たちの販売数推進上の戦略もわからなくはないのだが。

※美人。(「JOAH」より)