わたしたちは、過ぎ去った時間のことを「過去」と呼んでいる。過去という言葉を知らない人間はいないと思うが、わたしたちは過ぎ去った時間のことをそのように名付け、呼ぶことを通してとらえどころのない時間の流れを認識しているわけである。〈過去〉→〈現在〉→〈未来〉というのが、人間の人生時間を表す言葉である。

そのように「過去」という文字は、わたしたちにとって非常に馴染み深い言葉だが、よくよく考えると、「過」という文字は、訓読みすると「過(あやま)ち」と読むことに気付いた。過ちとは、人間が犯す失敗のことである。

●過ち(誤ち)
1 まちがい、失敗。
2 犯した罪、過失。
3 不倫。
4 怪我。

「過ごす」という文字が「過ち」を意味するとは、何とも意味深ではないか。その解釈に基づいて言えば、過ぎ去った時間とはすべからく後悔すべき失敗やまちがいであるとも言えなくはないからである。思い当たる節はある。その日がどんなに充実していたとしても、一日は24時間しかなく、人間がその時間内に体験できる経験には限度がある。どんな充実した時間を過ごしても、すべてをその日に経験することはできないのである。つまり、人間の過ごす一日には必ず後悔が張りついている。それはある種の失敗ではないか。

過去という言葉に「過ち」という文字が入っているのは、人間はどんなにあがいても、完全な一日を過ごすことはできず、成功にはほど遠いという皮肉な意味合いがこめられているのではないだろうか?   だとするなら、過ぎ去った時間を「過去」と名付けた人は、何という皮肉屋であろうか。あるいは、事の本質を見事にとらえた賢者であろうか。「もしもあの時こうではなく、ああしていたら?」ーーわたしたちは、「現在」と呼ばれる時間を常にそのように考えがちな生き物だから。

※時間。(「こくちーず」より)