(この物語は現実の競馬と同時進行の小説です。主人公は競馬で身を立てることを決心したギャンブラー。1978年から現代に時空を超えて飛ばされてきた男。はたして生きながらえるのか?馬券必勝法はあるのか?)

 

 

5月16日。

 

1978年からやって来た青井戸。

 

そのころはオープン馬は当然、準オープンから下級条件の馬でも名前を聞くだけでその戦績・脚質が頭に浮かんだものだ。

 

名も知らないいまの馬たち。早く自分の頭に取り込まなければ・・・・・・懸命の情報収集は青井戸の日々だった。

 

『いま』だけじゃない。1978年から途切れている歴史の流れを取り戻さねば・・・・・・それにも余念がなかった。

 

 

スポーツ新聞や競馬に関する書籍などでしか得られなかった情報。いまではインターネットで思うままに得られる。

 

驚きとともに感謝の青井戸だった。

 

 

 

歴史を調べて行くうちに、青井戸にとって驚愕だったのは社台ファーム、ノーザンファームに代表される社台グループの巨大化。そして、その推進役となった大種牡馬サンデーサイレンスの存在だ。

 

 

平成も半ばごろから競馬を始めた人たちには、それはすでに当たり前のことであり、何ら違和感もなかっただろうサンデーサイレンス産駒の活躍。

 

1994年に3歳(現表示2歳)産駒が走り出し、1995年から連続13年、リーディングサイアーとなったサンデーサイレンス。産駒によるG1勝利数75勝は、とんでもない数だ。

 

当然、多くの産駒が種牡馬となり、サンデーサイレンス亡きあと、それらの種牡馬がドンドン活躍馬を輩出している。

 

フジキセキ、マーベラスサンデー、ダンスインザダーク、バブルガムフェロー、ステイゴールド、スペシャルウィーク、アドマイヤベガ、エアシャカール、アグネスタキオン、マンハッタンカフェ、ゴールドアリュール、デュランダル、ゼンノロブロイ、ネオユニヴァース、ダイワメジャー、ハーツクライ、マツリダゴッホ・・・・・・そして、父サンデーサイレンスを超えようとするのがディープインパクトだ。

 

 

(パーソロンやテスコボーイといった輸入種牡馬の活躍が目立っていたが、これほどまでに1頭の種牡馬のサイアーラインが活躍、というより日本の馬産界に君臨する時代が来るとは、夢にも思わなかったなぁ。父母どっちかにサンデーサイレンスの血が入っている、いわゆるサンデー系。いわゆるサンデー系でなかったらG1はとれない・・・・・・そんな時代になってしまっている)

 

ある意味、恐怖さえ感じた青井戸。

 

 

サンデーサイレンスって、どんな馬?

 

興味は尽きなかった。

 

 

競走馬としては14戦9勝、2着5回。『アメリカ3冠』のうちケンタッキーダービー、プリークネスS、2冠制覇。

 

堂々たる戦績だが、青井戸が注目したのはデビュー前のサンデーサイレンスだ。

 

 

後脚の飛節が、両後脚にくっつきそうなぐらい内側に湾曲。とても競走馬としては期待できるような馬ではない、という評価だった。

 

「あんなひどい当歳馬は見たことがない」「目にするにも不愉快」とまでいわれたサンデーサイレンス。

 

セリ市に出してもロクな値がつかず、牧場側が買い戻すという結果ばかり。

 

結局、牧場主が半分の権利を友人に持ってもらい、自らの所有馬として出走させたというのがサンデーサイレンスのデビューの真実だった。

 

 

誰も期待をかけなかった馬、サンデーサイレンス。

 

当歳時にはウイルスに感染し、生死の境をさ迷ったことがある。セリからの帰り道に運転手が心臓発作を起こし馬運車が横転するという事故も。しばらく歩くこともできなかったサンデーサイレンス。ただ、ともに馬運車に乗っていた馬はすべて死亡したという。

 

 

度重なる災難も不遇も乗り越えたサンデーサイレンス。

 

世話をするにも困難なほどに気性の激しさを持っていたという。

 

 

青井戸は思った。『生』への強い強い思いが激しさとなって現れた、か?

 

偉大なサンデーサイレンス、その原点を感じ取った気がした。

 

 

このままなら『日本はサンデー飽和状態になる』、そんな人間どもの危惧などクソ喰らえ!

 

サンデーサイレンスの強い強い生命力が、日本を席巻した。

 

 

小っせいな、青井戸俊・・・・・・青井戸は自らに言うしかなかった。

 

 

(つづく)