(この物語は現実の競馬と同時進行の小説です。主人公は競馬で身を立てることを決心したギャンブラー。1978年から現代に時空を超えて飛ばされてきた男。はたして生きながらえるのか?馬券必勝法はあるのか?)
 
 
5月9日。
 
朝から一人緊張気味の風子。
 
電車で来ると言ってはった。もう乗っやろうか?着くのは昼頃かな?んとうちが先に病院に行っとかんと・・・・・・いろいろ考えながら、目の前にいる厄介なヤツをどう納得させるか?も考えなくてはならなかった。
 
一人にすると、どうしても不機嫌になる。かといって、それを口に出せない厄介なヤツ、それが青井戸だ。
 
状況を何も知らない青井戸。未来の自分、もう一人の青井戸に関わる大切なことではあるが、それは言えない。
 
過去から現代にやってきた青井戸。時空のねじれか、何なのか?実際、青井戸と同じような運命の人は人知れずいる。国家の特別調査機関に所属する鷲尾老人から聞いた話だが、その謎はまだ解明されていない現実。
 
 
過去から来た青井戸、青井戸にとって未来である現在に住む青井戸、二人の青井戸が接触することは避けてほしい・・・・・・鷲尾老人の見解に従うしかない風子。
 
どうあっても、いま病院で入院中の青井戸の存在を、目の前にいる青井戸に話すわけにはいかなかった。
 
 
「おじいちゃんの代わりに、ちょっと行くとこあるんで出て来るわ」
 
祖父である喫茶『我楽多』のマスターの用事とあらば何も言えぬ青井戸。風子にとって一番言いやすい口実で青井戸の不満を捻じ伏せた。
 
 
先ずは第一関門クリア・・・・・・と風子が思った時だった。風子の携帯が鳴った。
 
鷲尾老人からの電話だった。
 
 
 
「なんでこんな時に・・・・・・」
 
ぐちゃぐちゃになる頭の中を整理できずにタクシーに飛び乗った風子。
 
 
鷲尾老人からの電話は最悪の知らせだった。
 
「青井戸が、逝っちゃった」
 
 
朝方、容態が急変し、知らせを受けた鷲尾老人が駆け付けた時は息を引き取った後だという。
 
67歳青井戸俊は、誰に看取られることもなく臨終した。
 
 
急ぎ病院に着いた風子。正面入り口前では鷲尾老人が待ち、顔を合わせた途端に風子の目から涙があふれた。
 
両親は亡くしていても、物心ついて知人の死を経験したことのない風子。いくらしっかりしているとはいえ19歳。鷲尾老人を見た瞬間、幼子のように泣きじゃくった。
 
 
病院の霊安室に安置された青井戸俊の遺体。
 
その表情は穏やかだったのが救いだった。
 
 
 
人は死ねば『無』になるという。何もない世界、いや、世界すらない。自己すらない。何もないことすら意識のない『完全無』。
 
残された者たちの思い、葛藤。あらゆる悲しみのなかにのみ存在するのが『死』だ。
 
 
 
青井戸俊として、意識のある間に合わせたかった女性、上野原碧。そして、青井戸はその存在を知らなかった青井戸の息子である上野原俊一。
 
いま、まさに会いに向かっているというのに・・・・・・風子は時の流れの残酷さを恨んだ。
 
 
風子からその旨を聞いた鷲尾老人は、二人に青井戸の死を告げる役目は自分の使命とし、風子を喫茶『我楽多』へ戻すことにした。
 
自らが電話をかけ青井戸の死を知らせておきながら、崩れ落ちそうな風子を見て、あまりにも過酷なことを風子に課せていたことに気づいた。懺悔の思いだった。
 
 
風子は風子で、別人ではあるが同一人物の青井戸俊の死に直面して、無関心であるわけにはいかない自分の複雑な心境を吐露した。決して課せられたことではない。自らが、感情に揺り動かされた行動。
 
動かなくなった青井戸俊ではあっても、碧さんに、同じ男を愛してしまった女性に合わせてあげたい・・・・・・上野原碧、俊一を風子は待った。
 
 
 
どれほどの時間が経っただろうか?現れた上野原碧、俊一母子。
 
顔を見るなり碧に抱き着いた風子。何も言わずともその表情で悟った碧だった。
 
 
やさしく、やさしく風子の後ろ髪を撫でながら、頬には涙が伝った。
 
 
霊安室で青井戸との対面。時折りこぼれ出る涙をハンカチで拭い、碧は青井戸と長い、長い無言の対話を交わした。
 
かつて心を通い合わせた男と女だけがわかる空間。たとえ、何十年もの疎通があろうとも、たとえ、一人は亡骸であろうとも。碧にとって青井戸は、まだ『無』の存在ではない。
 
 
突然の親子の対面。つい最近まで何も知らなかった俊一にとっても、複雑な感情の中でやがて込み上げる熱いものがあった。背を向け壁に向かい、しゃくりあげるように泣き崩れた。
 
 
傍らですべてを見届けた鷲尾老人と風子。
 
 
霊安室を出て、風子は(やり終えた)と思った。
 
67歳の青井戸俊は碧のもとに戻った。これから先、風子とともにあるのは27歳の青井戸俊。
 
私は前を向く、それが、亡くなった青井戸俊のため、いまいる青井戸俊のため・・・・・・風子は決意を強くして、上野原碧、俊一、鷲尾老人と別れた。
 
 
鷲尾老人が手続きを取り、青井戸俊の遺体は和歌山へ行くこととなった。もはや両親は亡くなり身寄りのない青井戸。葬儀は碧が取り行うこととなり、いつまでも、いつまでも青井戸俊から離れないことを碧は俊の亡骸に誓った。
 
 
風子が帰りのタクシーに乗る寸前、風子の手をしっかり握りしめ碧が言った。
 
「こんなこと、私が言えた立場やないけど・・・・・・好きな人がいてらしたら、どんなことがあっても、好きでいる限りその人の手を離したらあかんえ。私みたいになったらあかん。風子さん、ほんとに、ありがとう。しあわせになってや。ならなあかんし」
 
風子は、何度も、何度もうなずいた。
 
 
(つづく)