(この物語は現実の競馬と同時進行の小説です。主人公は競馬で身を立てることを決心したギャンブラー。1978年から現代に時空を超えて飛ばされてきた男。はたして生きながらえるのか?馬券必勝法はあるのか?)
4月23日。
喫茶『我楽多』には青井戸、一人いた。風子はいない。
先週から続いて2度目。『友達と会う』とだけ言って出て行った風子。
あくまで青井戸のサポート役でいつも一緒にいてくれる風子。鷲尾老人の頼みを全うしてくれているだけ。
風子の個人的なことを詳しく聞く権利もなければ、その立場でもない青井戸。ただ、心に残る不機嫌さは消せない。
青井戸に多くを語らず一人で店を出たで風子は病院にいた。
67歳、もう一人の青井戸俊に会いに来ていたのだ。
過去から未来である現代へ飛ばされてきた27歳青井戸俊。青井戸にとって未来であるはずの現代まで生き続けて来た67歳青井戸俊。どちらも青井戸俊であり、風子は二人の青井戸俊を知ることとなってしまった。
そして、現代の青井戸俊は癌に罹り、余命幾ばくもないことを知らされた。さらには、青井戸がギャンブラーとして取り組む『倍倍方式』は67歳の青井戸俊が一生をかけて完成をめざしたものであることも知った。
その『倍倍方式』の完成を託すために、過去から執念で青井戸俊を呼び寄せたのが、他ならぬ青井戸俊本人ではないか?というのが鷲尾老人の推測、というか、つねに冷静な鷲尾という人間の独りよがりの妄想。
考えれば考えるほどにグチャグチャになる風子の脳と心。
二人いる青井戸俊。姿かたちは違うが同一人物。老青井戸俊のやり残したものを、若青井戸俊がやり遂げようとしている。そして、風子はその若青井戸俊を支えて行きたいと思っている。
理解し得ないことは考えない、現実だけを直視して行こう・・・・・・風子はそう考えた。
そして、できる限り老青井戸俊と話をしたかった。
鷲尾老人から聞いていた老青井戸俊の人生。競馬に、ギャンブラーとして『必勝馬券』に捧げた人生。
仕事も、愛する人も捨て、捧げる価値があったものかは、女である風子にはわからない。
死を直前にして、この老人は自分の人生をどう思うんだろうか?
ゆっくりと、老青井戸俊は語り出した。
「すべては、オレのわがままだ。オレも人並みに恋もした。好きで好きでたまらない女(ひと)もいた。仕事をやめて競馬に没頭した時も、その女(ひと)はオレから離れなかった。きっと、きっと、『必勝法』を編み出して幸せにしてみせる・・・・・・思っていたけど、やっぱりオレにとって一番は競馬だったんだね。競馬をやめて、真面目に働いて、その女(ひと)と家庭を持つ、とはいえなかった。オレが39歳の時だったかなぁ、一度だけ、競馬をやめようと思った。『おなかの中に赤ちゃんができた』といわれたんだよ。びっくりした。でも、嬉しかったのも事実。なのに、なんでなんだろう?『困った』と言ってしまった。その女(ひと)の目が、みるみる潤んでいくのが・・・・・・、しまったと思ったよ。何てことを、と思った。でも、そのあと下を向いて黙ったままの彼女に、何の言葉もかけられなかった。黙って抱き寄せることもできないでいた。心の中では、子どももできたしオレのわがままもここまでかな・・・・・・と思っていたんだ。でも、それを口に出せないオレ。ひとり、酒を飲みに行ってしまった。飲んで、飲んで、競馬をやめることを決心して、夜中に帰った。そのまま寝てしまい、目が覚めたら彼女はいなかった。そりゃそうだよな。愛想をつかされて当然」
「そんで、その時、その彼女さんのあとを追えへんかったん?」
ここまで聞いていた風子は黙っていられなかった。
「探したよ。勤め先にも行った。彼女の友だちにもあたってみた。でも、どこにも彼女はいなかった。さすがに競馬もそっちのけで探し回ったよ。ひと月ほど経って、手紙が来たんだ。別れるって、手紙。子どもは堕胎したってこと、自由に生きてってこと、そんなことが書いてあった。自業自得だよな。やっぱり、オレには競馬しかなかった」
そんなことない、なんでその時に競馬やめるって言ってあげられへんかったん・・・・・・風子は思いっきり言ってやりたかった。でも、いまさら言っても仕方ないこと。
「そんで、いま青井戸さんはどう思うのん?あなたの一生はしあわせやったん?」
そう聞いた。
「競馬を貫き通したことは『しあわせ』という言葉じゃなく、自分にわがままに生きて来れたかな、と思う。でも、そのせいで人をしあわせにしてやれなかったし、その上、すべてを犠牲にして完成できなかった『必勝法』。人間として最低だと思う」
「わかった。うちは俊、あなたと違う青井戸俊をしあわせにする。あなたとおんなじ人生は絶対歩ませへん。もちろん、あなたから託された『倍倍方式』は絶対、俊と一緒に完成させる。でも、でも、俊とのしあわせは絶対つかんで見せるから。それが一番」
思わず口を突いて出た風子の言葉。喫茶『我楽多』で一人憂鬱のなかにいる青井戸が聞いたら、びっくりして飛び上がるだろう言葉。
語りたくない過去を正直に吐露する老青井戸俊を前に、風子は自分自身の心に嘘をつけなかった。
「ありがとう」
寝たきりの青井戸は、静かに礼を言うと目を閉じた。
疲れ切った顔に、安堵の色が出た。
静かに病室を離れ、病院の外に出た風子。
思いは、小心で、単純で、厄介な青井戸に馳せた。
そして、ひとつの決意をもった。
老青井戸からその名を聞き出した、カミノサワ ミドリなる人物を探し出すこと。
急がなきゃ、時間はない。
(つづく)