ウオッカが、死んだ。

 

突然に報じられた、名牝の訃報。

 

 

現役引退後、アイルランドで繁殖牝馬として繋養されていたウオッカ。2月23日、種付けのため英国ニューマーケット近郊の牧場に移動していたという。

 

3月10日早朝、右後肢に異変が発見され病院に搬送された。その後、右後肢第3指骨粉砕骨折骨折が判明。

 

手術が行われ、回復処置が続けられていたが、両後肢に蹄葉炎を発症、回復ならずとの判断から、4月1日午後、安楽死処分が採られたという。

 

 

15歳、あまりにも突然の訃報に言葉がない・・・・・・。

 

 

 

牝馬クラシックこそライバル、ダイワスカーレットにその名を譲ったが、牡馬相手に数々のG1を制覇。その後に続くブエナビスタ、ジェンティルドンナ・・・・・・『強い強い牝馬』の礎を築いたウオッカ。

 

 

2007年、牝馬として史上3頭目、64年ぶりのダービー制覇。

 

 

2008年、外国馬アルマダ以下を3馬身半ちぎった安田記念。

 

天皇賞秋ではダイワスカーレットと死闘を演じ、15分間にわたる写真判定の結果、2cm差の勝利。

 

 

2009年、1歳下のNHKマイルカップ、ダービー『変則2冠馬』ディープスカイに差し勝った安田記念。

 

ジャパンカップでは、1歳下のオウケンブルースリと写真判定。またもや2cm差の勝利を上げた。

 

 

牡馬混合G1で堂々と1番人気となり、話題の中心となり、勝ち負けを刻んできたウオッカ。

 

生涯26戦10勝、2着5回、3着3回。シンボリルドルフ、テイエムオペラオー、ディープインパクトと並ぶJRAにおけるG1最多の7勝。

 

決して『無敵』の存在ではなかったウオッカ。

 

それだけに、ウオッカの残した足跡を人々は忘れない。

 

 

 

2004年4月4日、北海道日高郡静内町(現・新ひだか町)、カントリー牧場で生まれたウオッカ。

 

1960年代後半から70年代前半にかけて、マーチス(皐月賞)、タニノハローモア(ダービー)、タニノムーティエ(皐月賞・ダービー)、タニノチカラ(天皇賞秋・有馬記念)を輩出、馬産界に一大旋風を巻き起こしたカントリー牧場。

 

初代オーナー谷水信夫氏による『谷水式ハードトレーニング』の賜物と話題になった。

 

 

谷水信夫氏の急逝により2代目オーナーとなった谷水雄三氏。繁殖牝馬の増加など改革の取り組んだが、それが裏目となり凋落。1974年は3位にあった生産者ランキングは、1980年、97位にまで落ち込んだ。

 

新たに改革を掲げ、取り組んだ雄三氏。

 

長い、長いカントリー牧場の窮状を救ったのが、ウオッカの父タニノギムレット(2002年・ダービー馬)であり、その仔ウオッカだった。

 

 

ダービー制覇後、浅屈腱炎で引退を余儀なくされた父タニノギムレット分まで走り続けたウオッカ。

 

その名に『タニノ』の冠はなくとも、心はかつて競馬場を席巻した『タニノ』魂。

 

ダービーでタケシバオー、アサカオー、マーチス『3強』相手に5馬身差で逃げ切ったタニノハローモア。

 

『3冠』かけて、喘鳴症、ムリと知りながら4コーナー大外を後方一気に駆け上がったタニノムーティエ。

 

超人気ハイセイコー、タケホープに5馬身差。有馬記念を悠々と逃げ切ったタニノチカラ。

 

 

カントリー牧場の土が、草が、風が、歴史が・・・・・・ウオッカに心をくれた。

 

 

 

2010年3月4日、ドバイ・マクトゥームチャレンジラウンド3に出走。レース中に鼻出血を発症、8着に敗れ引退が決定された。

 

 

日本に帰ることなくアイルランドへ直行したウオッカ。

 

繁殖生活に入ったのだ。

 

 

欧州の至宝といわれるシーザスターズ、フランケルなどを父に7頭の仔を産んだウオッカ。

 

7頭目の牝馬(父フランケル)は1月28日に生まれたところだった。

 

 

まだ産駒に活躍馬を見い出せないウオッカ。

 

死んでも死に切れぬ思いだったか?

 

 

蹄葉炎に至った術後の闘病。苦しさは、痛みは、いかばかりか?

 

 

 

思えば海外遠征、4着、5着、7着、8着。

 

君は日本で走るのが好きだったのか?

 

 

故郷を離れて見知らぬ国で仔を産み続けたウオッカ。

 

 

いまはもう、君の故郷・カントリー牧場は消滅したけれども、

 

 

一度でいいから、

 

 

日高の空のもとで、我が仔を愛しむ君を見たかった。

 

 

 

いまは亡き君へ。

 

 

 

合掌。