母トウメイと同じ馬主、同じ厩舎、同じ騎手、同じ天皇賞秋で同じ12頭立て12番枠、同じ半馬身差で勝利したテンメイ。


どんなドラマ脚本家でも、あざとすぎて、投げ出してしまうほどの筋書き。


その奇跡を実現したテンメイ。




母仔鷹、その後は?




1979年、有馬記念まで9走したテンメイ。京都大賞典こそレコード勝ちしたが、惨敗を繰り返し、有馬記念は7着に終わった。

陣営は引退を示唆したが、種牡馬としての需要がなく、中央競馬会による種牡馬としての買い上げも実現しなかった。


外国種牡馬がどんどん輸入され、内国産種牡馬にとって不遇な時代。

初年度産駒から桜花賞・オークスを制したテイタニヤを出したアローエクスプレス。

エンペラーエース(函館記念)、ウエスタンジョージ(重賞3勝)など、重賞級を出したタイテエム。

ごくわずかな成功例で、ヒカルイマイ、ランドプリンス、イシノヒカル・・・多くの名馬が活躍馬を送り出せず、不遇なままに種牡馬を引退している。



当てのないまま1980年も走り続けたテンメイ。

種牡馬として個人で所有するという人物が現れ、6月の宝塚記念12着を最後に中央競馬の登録を抹消。

種牡馬生活に入るはずだった。


7月6日、岩手・盛岡競馬場にその姿があった。

地方・水沢競馬場の所属馬として、水沢・盛岡で走り続けた。


裏切られた。その事実を知ったファンが「トウメイの血を守る会」を結成。抗議活動を続けた。

所有者の意思は絶対、抗議が通るワケもなかった。


1981年、82年と走り続けたテンメイ。なんといっても天皇賞馬。地方デビュー4連勝するなど強さを発揮したが、年とともに脚力は衰え、勝てなくなった。



テンメイを取り戻したい・・・、あくなきファンの執念はコツコツと会費を集め資金を作った。

そして、200万円の価格でテンメイの購入に成功。地方で走り出して3年目、テンメイ9歳8カ月のことだった。


地方競馬とはいえ、手を抜くこともなく走ったテンメイ。

1,1,1,1,2,3,3,1,1,2,4,4,1,3,5,3,6,3,2,6,2,4,4,2,4,4着。


その走りで岩手のファンを喜ばせた。

厩舎も大事に大事に管理したという。



不遇ではあったが、不幸ではなかった。



故郷である北海道苫小牧市・藤沢牧場(現調教師・藤沢和雄の実家)に預けられ、細々とながら種牡馬生活を送ったテンメイ。



活躍した産駒は送り出せなかった。



晩年、水沢競馬場で乗馬として引き取りたい・・・という申し出があったが、藤澤牧場は『一生ウチで面倒を見る』、断固、言い放った。


1993年、骨折が原因で母トウメイより先に逝ったが、19歳で亡くなるまで藤沢牧場を安住の地として、余生を送った。



のどかな環境の中で、草を食み、


風の音に耳を傾け、


あの大歓声を、胸に呼び起こしていただろうか?




ただ、ひたすら走っただけの馬テンメイ。



神は、筋書きのないドラマを用意した。



(つづく)