弾丸の差し脚。
まさにそういう馬だった。
ホクトヘリオス。
テレビ実況泣かせ。
突然すぎて。テレビ画面に、その芦毛の姿が映ったかと思えば、そこがゴールだった。
届かず3着、届かぬ2着、実況アナに名を呼ぶ暇さえ与えない、芦毛の弾丸。
ホクトヘリオス。
父パーソナリティ、母ホクトヒショウ。母の父ボールドリック。
1984年、4月3日。北海道浦河町・斉藤英、無名牧場で生まれた芦毛の仔馬。
半妹ホクトビーナスが桜花賞2着。半弟ホクトフィルが朝日杯3着、走る血は内包されていた。
それがホクトヘリオスだった。
生涯34戦6勝、2着4回、3着8回。新馬戦2戦以外はすべてオープンレースで走り、重賞29戦。
最速上り、14回。上がり2位、8回。上がり3位、5回。
G2・2勝、G3・3勝、G1・2着2回・3着1回。
G1を勝っても不思議でない成績。
勝てないのは、後方一気の脚質のせい。
テレビ画面に映った時がゴール手前では、勝てるワケがない。
言われ続けた。
1986年、8月。函館新馬デビュー。3番人気、上がり2位で3着。
1番人気、最速の上りで勝ったのは、後に朝日杯3歳(現表記2歳)S、ダービーを制したメリーナイスだった。
2戦目新馬戦を勝ったあと、函館3歳S、京成杯3歳Sと重賞連勝。
12月。朝日杯3歳Sに1番人気で臨んだホクトヘリオスだったが、最速の上がりも好位から抜け出したメリーナイスをとらえ切れず、2着。
1987年。4歳クラシック。
ホクトヘリオスの切れすぎる脚は短距離向き。
とも言われたが、めざすこととなったクラシック戦線。
皐月賞、サクラスターオーの13着。
ダービー、メリーナイスの13着。
クラシック戦線を離脱も福島民友C3着、福島記念10着、ダービー卿チャレンジ13着。
早熟馬、烙印を押された。
1988年。
1月、中山開設60周年記念(芝1600m)。
重賞でもないオープンレース。ホクトヘリオスは11頭立て8番人気、バカにされたものだ。
鞍上は初騎乗となる2年目のジョッキー、若き柴田善臣。
ホクトヘリオスは復活の狼煙を上げた。いや、上げざるを得なかった。
ここで走らねば…、わが身の明日はあるかどうかもわからない。
名もない競走馬にとって、走ることでしかその身を守れない。
ホクトヘリオスは、よく知っていた。
4コーナー、最後方から末脚を爆発させた。
1番人気ニシノミラーにアタマ差届かず。
2着も、弾丸の末脚健在を見せつけた。
以後、1400m、1600m、1800mを限定に走り続けたホクトヘリオス。
以降、1戦を除いてすべてに柴田善臣が騎乗した。「競馬の多くを教わった」柴田善臣の騎手としてのいまに、大きく影響した馬がホクトヘリオスといえよう。
不器用すぎるほどの後方待機で、直線ゴール前は必ず顔を見せるホクトヘリオス。
安田記念は4着、4着、5着。
1988年のマイルチャンピオンSでは、サッカーボーイに4馬身ちぎられたものの、ゴール前にすっ飛んできて2着を確保した。
1989年では、オグリキャップ、バンブーメモリーのハナ差大接戦から、4馬身離れて3着。
名前を一度も呼ばれることもなく、ゴールではすっ飛んできていた。
1990年。
7歳にして東京新聞杯、中山記念、重賞連覇。
東京新聞杯では、リンドホシ、カッティングエッジなどが繰り広げる先頭争いを、大外、テレビ画面に現れてかと思うと、差し切ってしまった。
実況アナが「ホクトヘリオスーッ!」、一度の叫びが精一杯だった末脚。
不器用すぎる、もう少し前につけられれば…、レースが終わってからつっこんでも…、
言われ続けたホクトヘリオス。
否、
否、否、否。
あれがホクトヘリオス。
ゴール前の切れ味がなければ、いつも惨敗のただの馬。
無名の血に生まれたホクトヘリオスにとって、
生まれもっての並外れたスピードももたないホクトヘリオスにとって、
成り上がるには、
すべてを捨てて、最後の最後に己が力を爆発させるしかなかった。
弾丸の末脚は、魂の爆発。
1990年、6月、宝塚記念7着を最後に引退したホクトヘリオス。
種牡馬となり初年度は種付け63頭と順調に見えたが、産駒に活躍馬が全く出ず、1998年、5月26日、種付け終了後に急死した。
突然のままに、
その生涯を終えた。