デビュー前に生死を彷徨ったマーベラスサンデー。

390㌔まで落ち込んだ馬体。


それでも気性の荒々しさは失ってなかった。目の光りは失っていなかった。

かつて同じ馬主のマーベラスクラウンを気性の激しさから、セン馬とせざるを得なかった大沢真調教師、担当した古川代津雄厩務員。

なんとしても……。

セン馬にせず、いまの状態で競走馬として走らせてやりたい。

思いは同じだった。


馬体の回復を図りながら、調教も行わなければデビューは来ない。

そして、気性難。


マイナスからの出発。


最も耐えたのは、馬主ではない。調教師でもない、厩務員でもない、マーベラスサンデーだ。


競走馬として、それが生きる道。耐えた。




1995年、2月。4歳(現表記3歳)にしてようやく新馬デビュー。

レースが近づくにつれ、それを知っているかのように気性の荒さは薄れ、おとなしくなったマーベラスサンデー。


鞍上にはトップジョッキー武豊。生涯15戦、すべてを武豊が手綱を取ることとなる。

武豊の騎乗馬のなかでも珍しい存在。


ダート1800m、1番人気で2馬身半差の勝利。


3月、ゆきやなぎ賞を勝利し、クラシックへと夢馳せたが、右膝を再び骨折。

骨折が癒え、帰厩した秋には左後脚を骨折、さらに休養。


同じサンデー産駒ジュニュイン、タヤスツヨシらとともに走ることなく4歳を終えた。




1996年、4月。1年1か月ぶりの復帰戦。4着と敗れた。

5歳春、もう足踏みはできない。

一気に突っ走ったマーベラスサンデー。


賀茂川特別(900万下)、桶狭間S(1600万下)、エプソムC(G3)、札幌記念(G3)、朝日チャレンジC(G3)京都大賞典(G2)、6連勝。



10月27日、天皇賞秋。

4歳のバブルガムフェロー(朝日杯3歳S)1着。

同期のマヤノトップガン(菊花賞)2着。

6歳、サクラローレル(天皇賞春)3着。


マーベラスサンデーは4着に敗れた。



12月22日、有馬記念。

サクラローレル、マヤノトップガンとともに『3強』と呼ばれ、

好位からマヤノトップガン、女傑といわれたヒシアマゾンなどを退けたが、サクラローレルに敗れ2着。




1997年。

3月、産経大阪杯から始動。

3番手から抜け出して勝利。重賞では格の違いを見せつけた。



4月27日、天皇賞春。3度、顔を合わせた3強。

今度こそ…、思いは鞍上・武豊も同じだった。


完全にサクラローレルをマークしたマーベラスサンデー。

3コーナーから上りを見せる2頭。マヤノトップガンだけが後方に置かれた。


直線、並んで突き抜けようとするローレル、マーベラス。

譲らぬ横山典弘、武豊。


ローレルがわずかに前に、長い死闘に区切りがついた。

その時だった。


一気に2頭を交わし去ったのが、田原成貴マヤノトップガンだった。


マーベラスサンデー、3着。




7月6日、宝塚記念。

ローレルもトップガンもいない。

相手はバブルガムフェロー、タイキブリザード、ダンスパートナー。


ここで勝たなくては…、後方からバブルガムフェローを差し切り、初G1制覇。


しかし、競走中に骨折していたことが判明。



12月21日、有馬記念。

骨折休養明け、ぶっつけ本番。


フランス遠征で屈腱不全断裂で引退となったサクラローレル。

浅屈腱炎で引退となったマヤノトップガン。


相次いでライバルの引退。

3強、ただ1頭残ったマーベラスサンデーにとって、万全でない状態でも負けられない一戦。


後方から、メジロドーベル、エアグルーヴ、女傑と呼ばれる牝馬は差し切った。

しかし、若さあふれるシルクジャスティスにアタマ差、伸び負けた、2着。


1998年も現役続行予定だったが、今度は右前脚に屈腱炎を発症。


引退となった。





シルクフェイマス、ネヴァブション、スマートギア、サニーサンデー。

重賞勝ち馬こそ出しているが、いまだに平場G1馬は出していないマーベラスサンデー。



サイレンスボーイ、オーゴンサンデー、シルキーゲイル、マーベラスボーイ、ミキノマーベラス、マルトク、センカク、メイショウサライ、マッシヴエンペラー、カワキタフウジン、ラッシュストリート、ドリームゼニス・・・・・・。


準オープンで活躍する、活躍した『名もなき英雄たち』を多く輩出してきた。


頻繁にレースを走り、競馬ファンを楽しませる。

重賞戦線にはチョイ足らず、重賞記録に名は残らない、名もなき英雄。




父の欄に、その名はある、




マーベラスサンデー。