ディープインパクト、ステイゴールド、フジキセキ、アグネスタキオン、スペシャルウィーク、マンハッタンカフェ、ダンスインザダーク・・・・・・・。
キラ星のごとく輝くサンデーサイレンス産駒種牡馬。
なかにあって、
地味な存在ながらも、つねに安定した産駒成績を納めているのがマーベラスサンデーだ。
1998年、種牡馬入り。
新冠町のCBスタッドで供用も、2003年倒産。以後、優駿スタリオンステーションで繋養されている。
初年度産駒からシルクフェイマス(重賞3勝)を出し、ネヴァブション(重賞3勝)、スマートギア(中日新聞杯)、サニーサンデー(福島記念)と中央競馬重賞勝ち馬を送り出す。
また、中山大障害2回制覇のキングジョイや、ドングラシアス(小倉サマージャンプ)など優秀な障害馬を輩出。
ダートでも成績を残し、セレン、ムツミマーベラスなど地方競馬で活躍の産駒も多い。
2011年、東京競馬場で行われた南部杯マイルチャンピオン。岩手のファンファーレが東京競馬場に響き渡り、『岩手の星』ロックハンドスターが出走したが、スタート直後に競走中止。帰らぬ星となったが、ロックハンドスターもまたマーベラスサンデー産駒だった。
1992年、5月31日。北海道新冠町・早田牧場新冠支場で生まれたマーベラスサンデー。
父サンデーサイレンス、母モミジダンサー。母の父ヴァイスリーガル。
同じサンデー産駒・ジュニュイン、タヤスツヨシと同期。サンデー初年度産駒だった。
レオダーバン(菊花賞)、マーベラスクラウン(ジャパンカップ)、ナリタブライアン(3冠馬、G1・5勝)、ビワハヤヒデ(G1・3勝)、ビワハイジ(ブエナビスタの母)……などを続々と出した名門・早田牧場。
マーベラスサンデーの後も、シルクジャスティス(有馬記念)、シルクプリマドンナ(オークス)と出している。
種牡馬マーベラスサンデーにとって不運だったのは、早田牧場、傘下のCBスタッドの倒産だった。
同じ早田牧場の1歳下のビワハイジはノーザンファームへて移籍し、アドマイヤオーラ、ブエナビスタ、トーセンレーヴ、ジョワドヴィーヴルを産んでいる。
祖母モミジは3,4歳時にカナダの牝馬チャンピオンとなった名牝。その良血を分け与えるにふさわしい良血牝馬に巡り合えていない、という事実。
倒産がもたらした境遇の変化は、マーベラスサンデーにとって決して良好とはいえなかった。
そんななかで、つねに20位前後の種牡馬成績を残してきたマーベラスサンデー。
0.4秒以上離されて負けることが一度もなかった、マーベラスサンデー。
そのがんばりが、見事に受け継がれているようだ。
幼少の頃は華奢を通り越して、貧弱ともいえたマーベラスサンデーの馬体。
なかなか買い手がつかなかったという。
同じ早田牧場産のマーベラスクラウンを管理していた栗東・大沢真調教師の計らいで、マーベラスクラウンの馬主・笹原貞夫氏の所有となり、競走生活を迎えられることとなった。
サンデー産駒特有の気性の激しさをもち、それがいい方に出る典型の馬だった。
気性の激しさが闘争心となり、前へ前へと突き進む原動力となった。
入厩して、調教が進むにつれ馬体の貧弱さは霧散し、デビュー前は素質馬として注目された。
だが、調教中に左膝を骨折。
放牧に出されたが、疝痛を発症。一時は危篤状態に陥った。
480㌔あった馬体が390㌔まで落ちたという。
一命を取りとめ放牧から帰り、
教務員・古川代津雄とともに、長い長い戦いが始まった。
まずは、馬体回復。
鍛錬しながら・・・、過酷な戦いだった。
デビューの光りは、見えないままに。
(つづく)
デビューは
キラ星のごとく輝くサンデーサイレンス産駒種牡馬。
なかにあって、
地味な存在ながらも、つねに安定した産駒成績を納めているのがマーベラスサンデーだ。
1998年、種牡馬入り。
新冠町のCBスタッドで供用も、2003年倒産。以後、優駿スタリオンステーションで繋養されている。
初年度産駒からシルクフェイマス(重賞3勝)を出し、ネヴァブション(重賞3勝)、スマートギア(中日新聞杯)、サニーサンデー(福島記念)と中央競馬重賞勝ち馬を送り出す。
また、中山大障害2回制覇のキングジョイや、ドングラシアス(小倉サマージャンプ)など優秀な障害馬を輩出。
ダートでも成績を残し、セレン、ムツミマーベラスなど地方競馬で活躍の産駒も多い。
2011年、東京競馬場で行われた南部杯マイルチャンピオン。岩手のファンファーレが東京競馬場に響き渡り、『岩手の星』ロックハンドスターが出走したが、スタート直後に競走中止。帰らぬ星となったが、ロックハンドスターもまたマーベラスサンデー産駒だった。
1992年、5月31日。北海道新冠町・早田牧場新冠支場で生まれたマーベラスサンデー。
父サンデーサイレンス、母モミジダンサー。母の父ヴァイスリーガル。
同じサンデー産駒・ジュニュイン、タヤスツヨシと同期。サンデー初年度産駒だった。
レオダーバン(菊花賞)、マーベラスクラウン(ジャパンカップ)、ナリタブライアン(3冠馬、G1・5勝)、ビワハヤヒデ(G1・3勝)、ビワハイジ(ブエナビスタの母)……などを続々と出した名門・早田牧場。
マーベラスサンデーの後も、シルクジャスティス(有馬記念)、シルクプリマドンナ(オークス)と出している。
種牡馬マーベラスサンデーにとって不運だったのは、早田牧場、傘下のCBスタッドの倒産だった。
同じ早田牧場の1歳下のビワハイジはノーザンファームへて移籍し、アドマイヤオーラ、ブエナビスタ、トーセンレーヴ、ジョワドヴィーヴルを産んでいる。
祖母モミジは3,4歳時にカナダの牝馬チャンピオンとなった名牝。その良血を分け与えるにふさわしい良血牝馬に巡り合えていない、という事実。
倒産がもたらした境遇の変化は、マーベラスサンデーにとって決して良好とはいえなかった。
そんななかで、つねに20位前後の種牡馬成績を残してきたマーベラスサンデー。
0.4秒以上離されて負けることが一度もなかった、マーベラスサンデー。
そのがんばりが、見事に受け継がれているようだ。
幼少の頃は華奢を通り越して、貧弱ともいえたマーベラスサンデーの馬体。
なかなか買い手がつかなかったという。
同じ早田牧場産のマーベラスクラウンを管理していた栗東・大沢真調教師の計らいで、マーベラスクラウンの馬主・笹原貞夫氏の所有となり、競走生活を迎えられることとなった。
サンデー産駒特有の気性の激しさをもち、それがいい方に出る典型の馬だった。
気性の激しさが闘争心となり、前へ前へと突き進む原動力となった。
入厩して、調教が進むにつれ馬体の貧弱さは霧散し、デビュー前は素質馬として注目された。
だが、調教中に左膝を骨折。
放牧に出されたが、疝痛を発症。一時は危篤状態に陥った。
480㌔あった馬体が390㌔まで落ちたという。
一命を取りとめ放牧から帰り、
教務員・古川代津雄とともに、長い長い戦いが始まった。
まずは、馬体回復。
鍛錬しながら・・・、過酷な戦いだった。
デビューの光りは、見えないままに。
(つづく)
デビューは