2012年の本年、第17回を迎えるNHKマイルカップ。
その歴史の始まりは外国産馬の鬱憤の吐き出し場所だった。
クラシックに出走権のない外国産馬に開放された4歳(現表記3歳)G1レース。
こぞって出走した強力外国産馬。
1996年、第1回タイキフォーチュンが優勝した時は、1着から8着までを外国産馬が占めた。
それ以前は完全な競馬鎖国に、外国産馬は憂いの競走生活を送っていた。
1977年、8戦全勝のまま引退したマルゼンスキーの主戦騎手・中野渡清一が、
「28頭立ての大外枠でいい。賞金もいらない。他の馬の邪魔もしない。だから、マルゼンスキーをダービーに走らせてくれ」、泣いて懇願したのは有名な話。
1988年、3月3日。アメリカで生まれたリンドシェーバーも、その恐ろしいまでの力を発揮する場所を得ないまま、ターフを去った馬だった。
父アリダー、母ベーシィド。母の父クールムーン。
父アリダーはアメリカ競馬殿堂入りを果たしている名馬。G1・6勝。
米3冠馬アファームドの3冠すべて2着というので有名。
アリシーバ、イージーゴア、カコイーシーズなどを輩出。種牡馬としても大成功を納めた馬。
母系は地味だが、父アリダーの評判と、ひと際異彩を放つ好馬体で日本に来た時から話題の馬だったリンドシェーバー。
1990年、7月の札幌新馬戦・芝1200mでは、2着グレンワカタケを8馬身ぶっちぎった。
鞍上は的場均。調教でリンドシェーバーの走りに惚れ込んだ的場が、珍しく自ら騎乗を希望したという。
リンドシェーバーに初めて調教で跨った日に、家に帰るなり家族に言った。
「おい、今年の朝日杯は勝ったぞ」
寡黙な仕事人をはしゃがせた馬だった。
8月、クローバー賞・芝1200m。
不良馬場に苦しみながらノーザンドライバーにクビ差、競り勝った。
9月、函館3歳S・芝1200m。
ソエ(管骨骨膜炎=急なトレーニングなどで起こる若駒特有の症状)に悩まされながら、またも不良馬場での競馬。
逃げるミルフォードスルーを半馬身とらえきれずに、2着。
休養に入ったリンドシェーバー。
12月、朝日杯3歳S・芝1600mへ登場してきたリンドシェーバー。
ソエも固まり、戦える状態。
新馬、新潟3歳S、京成杯3歳Sと3連勝のビッグファイト。
2戦2勝のダイナマイトダディ。
的場が調教で乗った日に、「勝った」と言った朝日杯。
この時が来た。
的場の思いは手綱を伝わったか?
凄まじい気合いを見せた。
早いペースで逃げるエディター、先行グループの直後につけたのは、リンドシェーバーだった。
1000m通過57秒7、ハイペースを早めに進出、抜け出したリンドシェーバー。
後方につけたビッグファイト、ダイナマイトダディにはこれ以上ない展開に思えた。
直線、崩れることのない脚を見せたのは、リンドシェーバーだった。
1分34秒0。14年前、マルゼンスキーが出した朝日杯レコードを0.4秒更新。
「マルゼンスキーの再来」とまでいわれた。
1991年。
4歳となったリンドシェーバー。
クラシック出走権のない外国産馬にとって、目標はない。
2月、ヒヤシンスS・芝1400m。別定重量。
賞金獲得の多いリンドシェーバーは58㌔を背負った。他馬は55㌔。
2着ニホンピロラックに4馬身差の圧勝。
勝つことによって、別定重量なら、ますます重くなる。ハンデ戦は言うまでもない。
走るレースが、どんどん絞られていくのが、実情だ。
3月、皐月賞トライアル・弥生賞、芝2000m。
1600mまでしか経験ないリンドシェーバー、適距離とはいえない。
皐月賞トライアル、3着までに入って優先出走権など、無意味なレース。他の馬にとって、リンドシェーバーは最大最強の邪魔者。
馬齢重量により全馬55㌔。それだけがリンドシェーバーが走る理由。
6戦3勝2着1回、3着1回。阪神3歳Sを勝利した西の王者イブキマイカグラ。
イブキマイカグラには意地があった。
最優秀3歳牡馬の称号を東の王者リンドシェーバーに持って行かれた。
なおかつ、リンドシェーバーには意味ない皐月賞トライアルを勝たれては・・・、内国産馬にも意地と誇りがあった。
激突、東西の王者。
2番手につけたリンドシェーバー。
逃げたのは、祖母に凱旋門賞馬サンサンをもつ3億6千万円の超エリート・サンゼウス(父トウショウボーイ)。
リンドシェーバーは直線、サンゼウスをとらえ必勝態勢に入った。
ただ1頭、差し込んでくる栗毛馬。
イブキマイカグラだった。
デッドヒート!
意地と意地の戦い。
リンドシェーバーとて、クラシックを締め出された外国産馬として、負けられない意地があった。
結果はクビ差、イブキマイカグラが差した。
弥生賞後、調教中に骨折が判明したリンドシェーバーは引退となった。
3歳に朝日杯を勝った時点で、異例ともいえる現役中にシンジケートが組まれたリンドシェーバー。
無理はさせずに種牡馬へ……、その方針が取られた。
父アリダーの死の影響も大きい。1990年11月に死去したアリダー。
繋養先で右前脚骨折、予後不良、薬殺処分とあるが、アリダーに多額な保険をかけた牧場の、保険金狙いの犯行といわれ謎を呼んだ。
15歳の若さで逝ったアリダー。その日本の後継として、注目されたリンドシェーバー。
アリダーには遠く及ばずも、それなりの産駒を残した。
4歳牝馬特別など、新馬以来4連勝したサイコーキララ。レインボークイン、マルハチマエストロ、ギャラントアロー・・・・・・。
いまは穏やかに功労馬として、余生を送っている。
時代の中で、時代に翻弄されながらも、
一気に、力強く駆け抜けたリンドシェーバー。
底知れない力の片鱗だけを見せ、足早に去った。
時がいまなら、
大きな大きな勲章が、
燦然と輝いていたことだろう。
君のその足跡に。
その歴史の始まりは外国産馬の鬱憤の吐き出し場所だった。
クラシックに出走権のない外国産馬に開放された4歳(現表記3歳)G1レース。
こぞって出走した強力外国産馬。
1996年、第1回タイキフォーチュンが優勝した時は、1着から8着までを外国産馬が占めた。
それ以前は完全な競馬鎖国に、外国産馬は憂いの競走生活を送っていた。
1977年、8戦全勝のまま引退したマルゼンスキーの主戦騎手・中野渡清一が、
「28頭立ての大外枠でいい。賞金もいらない。他の馬の邪魔もしない。だから、マルゼンスキーをダービーに走らせてくれ」、泣いて懇願したのは有名な話。
1988年、3月3日。アメリカで生まれたリンドシェーバーも、その恐ろしいまでの力を発揮する場所を得ないまま、ターフを去った馬だった。
父アリダー、母ベーシィド。母の父クールムーン。
父アリダーはアメリカ競馬殿堂入りを果たしている名馬。G1・6勝。
米3冠馬アファームドの3冠すべて2着というので有名。
アリシーバ、イージーゴア、カコイーシーズなどを輩出。種牡馬としても大成功を納めた馬。
母系は地味だが、父アリダーの評判と、ひと際異彩を放つ好馬体で日本に来た時から話題の馬だったリンドシェーバー。
1990年、7月の札幌新馬戦・芝1200mでは、2着グレンワカタケを8馬身ぶっちぎった。
鞍上は的場均。調教でリンドシェーバーの走りに惚れ込んだ的場が、珍しく自ら騎乗を希望したという。
リンドシェーバーに初めて調教で跨った日に、家に帰るなり家族に言った。
「おい、今年の朝日杯は勝ったぞ」
寡黙な仕事人をはしゃがせた馬だった。
8月、クローバー賞・芝1200m。
不良馬場に苦しみながらノーザンドライバーにクビ差、競り勝った。
9月、函館3歳S・芝1200m。
ソエ(管骨骨膜炎=急なトレーニングなどで起こる若駒特有の症状)に悩まされながら、またも不良馬場での競馬。
逃げるミルフォードスルーを半馬身とらえきれずに、2着。
休養に入ったリンドシェーバー。
12月、朝日杯3歳S・芝1600mへ登場してきたリンドシェーバー。
ソエも固まり、戦える状態。
新馬、新潟3歳S、京成杯3歳Sと3連勝のビッグファイト。
2戦2勝のダイナマイトダディ。
的場が調教で乗った日に、「勝った」と言った朝日杯。
この時が来た。
的場の思いは手綱を伝わったか?
凄まじい気合いを見せた。
早いペースで逃げるエディター、先行グループの直後につけたのは、リンドシェーバーだった。
1000m通過57秒7、ハイペースを早めに進出、抜け出したリンドシェーバー。
後方につけたビッグファイト、ダイナマイトダディにはこれ以上ない展開に思えた。
直線、崩れることのない脚を見せたのは、リンドシェーバーだった。
1分34秒0。14年前、マルゼンスキーが出した朝日杯レコードを0.4秒更新。
「マルゼンスキーの再来」とまでいわれた。
1991年。
4歳となったリンドシェーバー。
クラシック出走権のない外国産馬にとって、目標はない。
2月、ヒヤシンスS・芝1400m。別定重量。
賞金獲得の多いリンドシェーバーは58㌔を背負った。他馬は55㌔。
2着ニホンピロラックに4馬身差の圧勝。
勝つことによって、別定重量なら、ますます重くなる。ハンデ戦は言うまでもない。
走るレースが、どんどん絞られていくのが、実情だ。
3月、皐月賞トライアル・弥生賞、芝2000m。
1600mまでしか経験ないリンドシェーバー、適距離とはいえない。
皐月賞トライアル、3着までに入って優先出走権など、無意味なレース。他の馬にとって、リンドシェーバーは最大最強の邪魔者。
馬齢重量により全馬55㌔。それだけがリンドシェーバーが走る理由。
6戦3勝2着1回、3着1回。阪神3歳Sを勝利した西の王者イブキマイカグラ。
イブキマイカグラには意地があった。
最優秀3歳牡馬の称号を東の王者リンドシェーバーに持って行かれた。
なおかつ、リンドシェーバーには意味ない皐月賞トライアルを勝たれては・・・、内国産馬にも意地と誇りがあった。
激突、東西の王者。
2番手につけたリンドシェーバー。
逃げたのは、祖母に凱旋門賞馬サンサンをもつ3億6千万円の超エリート・サンゼウス(父トウショウボーイ)。
リンドシェーバーは直線、サンゼウスをとらえ必勝態勢に入った。
ただ1頭、差し込んでくる栗毛馬。
イブキマイカグラだった。
デッドヒート!
意地と意地の戦い。
リンドシェーバーとて、クラシックを締め出された外国産馬として、負けられない意地があった。
結果はクビ差、イブキマイカグラが差した。
弥生賞後、調教中に骨折が判明したリンドシェーバーは引退となった。
3歳に朝日杯を勝った時点で、異例ともいえる現役中にシンジケートが組まれたリンドシェーバー。
無理はさせずに種牡馬へ……、その方針が取られた。
父アリダーの死の影響も大きい。1990年11月に死去したアリダー。
繋養先で右前脚骨折、予後不良、薬殺処分とあるが、アリダーに多額な保険をかけた牧場の、保険金狙いの犯行といわれ謎を呼んだ。
15歳の若さで逝ったアリダー。その日本の後継として、注目されたリンドシェーバー。
アリダーには遠く及ばずも、それなりの産駒を残した。
4歳牝馬特別など、新馬以来4連勝したサイコーキララ。レインボークイン、マルハチマエストロ、ギャラントアロー・・・・・・。
いまは穏やかに功労馬として、余生を送っている。
時代の中で、時代に翻弄されながらも、
一気に、力強く駆け抜けたリンドシェーバー。
底知れない力の片鱗だけを見せ、足早に去った。
時がいまなら、
大きな大きな勲章が、
燦然と輝いていたことだろう。
君のその足跡に。