一度は行ってみたい、カントリー牧場。

男はいつも、思っていた。


そのうち、そのうちが40年。


お笑い草だ、牧場閉鎖。ぐうたら人間の結末はこんなものさ。


『タニノ』の冠、カントリー牧場が閉鎖した。



出会いは1970年、タニノムーティエ。

栗毛の二白流星、その美しさに惚れた。


その強さを崇めた。


男は予備校通いの合い間に、せっせと単勝馬券を買った。100円券。(笑)

男は受験勉強の合間に、せっせとタニノムーティエの情報を集めまくった。


3歳時(現表記2歳)、9戦7勝、2着1回、4着1回。

唯一の着外4着。若き鞍上・安田伊佐夫が内で包まれ、脚を余して負けた。


オーナーブリーダーのカントリー牧場、『タニノ』の先代オーナー谷水信夫氏はいとも簡単に結論を出した。

「それなら他の馬がいない大外を通りなさい」


タニノムーティエは走った。3コーナーから4コーナーへ、誰もいない大外を。

これが通称『ムーティエコース』の始まりだ。


オープン、京都3歳S、阪神3歳S、きさらぎ賞、弥生賞、スプリングS、皐月賞、破竹の7連勝。

関東№1アローエクスプレスもブチ破った。


NHK杯で不覚のアローエクスプレスの2着も、ダービーを勝ち2冠。

3冠絶対、といわれた。


夢砕け散った喘鳴症(ノド鳴り)。競走能力半減。菊絶望といわれた。

それでも登場した菊花賞。


名伯楽といわれた、安田伊佐夫の師匠・武田文吾。シンザンの調教師。

「ノド鳴りの馬は追うな、馬任せで行け」


師の言葉を守った安田伊佐夫。


だが、タニノムーティエは3コーナーから大外を進出、ムーティエコースを通り4コーナーでは先頭に並びかけようとした。

決して追わなかった安田伊佐夫。すべてはムーティエの心が体を動かしたキセキ。


キセキは起こらなかった。


矢折れ力尽き、11着。


ただ、ただ、男は涙流し見守った、ゴール板。




それから40年余り。

『タニノ』という冠がつくだけで、カントリー牧場の馬をこよなく愛した。

タニノアポロ、タニノモスボロー、タニノタマナー、タニノアベイ、タニノソブリン、タニノマーシャル、タニノチカラ、タニノスイセイ、タニノラパス、タニノチェスター、タニノダーバン、アニノサイアス、タニノセブンツー、タニノレオ、タニノマウナケア、タニノゴードン、タニノ・・・・・・。

記憶の欠片を拾い集めれば、いくらでも出てくるタニノの馬。


競走馬は馬主のもの。


当然。



でも、



こよなく愛するファンにとって、かけがえのないものとなるのも、競走馬である。


声なき愛情の熱さを、馬は知っている。



タニノエポレット。

父ダンスインザダーク、母タニノカリス。母の父ジェネラス。


叔父にタニノギムレットをもつ。

長き低迷のタニノの救世主ギムレット。ダービーを勝ち、種牡馬となり名牝ウオッカを出した。


ウオッカ以後、また下降線のタニノにあって、菊花賞を制したビッグウィーク。

ウオッカ、ビッグウィーク、名こそ『タニノ』はないが、カントリー牧場産。谷水氏の持ち馬。

タニノ軍団に変わりはないはず。


ビッグウィークが菊花賞の優先出走権を得た神戸新聞杯3着。

4分の3馬身差4着で、涙を飲んだのがタニノエポレットだった。


タニノムーティエ、皐月賞、ダービー。タニノチカラ、天皇賞、有馬記念。

『タニノ』ファン悲願の菊花賞。

挑戦権を得て、制したのはビッグウィークだった。


やられちゃったなァ。


のんびり屋のタニノエポレット。



勝てそうで勝てないレースを繰り返しながら、いまは1600万下。



ビッグウィークは目を覆うばかりの低迷。



カントリー牧場は閉鎖。



タニノエポレットよ。



もう、のんびりしちゃいられないよ。




強く、強くなるんだ。




強くならなきゃ、もう、帰る故郷は、ない。





走れッ!





タニノエポレット。





叔父タニノギムレットは、強さで種牡馬の道をつかんだ。