競走馬は走ることが、すでに本能。
ひたすらゴールをめざす。
「この馬は、ほんとに走ることが好きなんですよね」
調教師から、よく言われる言葉。
もし、走ることが、
嫌になった馬がいたら、
また、悲しい。
走る本能さえも奪われ、
走らされ続けるだけ。
こんな残酷なことはない。
ゴスホークケン。
父バーンスタイン、母オールザウェイベイビー。母の父グランドスラム。
2005年、3月3日。アメリカで生まれ、『マルターズ』、『シベリアン』の冠で知られる馬主、故・藤田与志男氏によってセールで買われ、日本にやってきた。
バーンスタイン産駒を探し求めていた藤田氏にとって、黒鹿毛の雄大な馬体は、ひと際目を引いた存在だった。
ゴスホーク(オオタカ)+ケン(犬)、オオタカと犬がなぜ一緒になったか?
謎ではあるが、
音の響きからは、底知れぬ強さを感じさせた。
2007年、10月。新馬戦・芝1600mデビュー。
調教から目立っており、単勝1.7倍、断トツ人気だった。
5番手から、直線、持ったままでで先頭に立ち、1度もムチを入れることもなく圧勝した。
2着ロングキーブリッジに2馬身2分の1差。1分34秒9。
新馬戦後、骨膜が出たため十分な調教ができず、2戦目の東京スポーツ杯2歳Sは4着と敗れた。
脚元の不安でウッドチップでは強い調教ができない日々。
この時開設されたニューポリトラックコースによって救われた。
脚元に大きな負担をかけることなく、負荷をかけた調教ができた。
12月9日。朝日杯FS。
1番人気スズジュピター、2番人気アポロドルチェ、3番人気がゴスホークケンだった。
キャプテントゥーレ、ヤマニンキングリー、エーシンフォワードが人気で続き、混戦といわれた。
1番枠、ゴスホークケンはスタートするなり先手を奪い、残る15頭を引き連れて、ひたすら逃げた。
上がり3ハロン35秒2、最速の上がりを叩き出したのは、逃げたゴスホークケンだった。
逃げて、最速の上がり、負けようはずがない。
2馬身2分の1、2着のレッツゴーキリシマにつけた差は、3歳の頂点も保証するかのような大きなものだった。
1分33秒5、朝日杯史上2位タイのタイムで逃げ切ったゴスホークケン。
現実にNHKマイルカップから日本ダービー、さらにはブリターズカップまで視野に入れられた。
ゴスホークケンの3歳のビジョン。
2008年、4月。ニュージーランドTから復帰したゴスホークケン。
12着と惨敗。
続くNHKマイルカップもディープスカイの12着と敗退。
函館スプリントS5着、キーンランドS10着、京成杯オータムハンデ15着。
休養に入った。
強い2歳の面影は、消え失せた。
ブリダーズカップへの挑戦の野望はいつしか霧と消えた。
馬主・藤田与志男氏が亡くなり、斎藤誠厩舎から手塚貴久厩舎に転厩。
アイビスサマーダッシュ15着、朱鷺S17着、バレンタインS13着。
東風S9着、欅S16着、福島テレビオープン12着。
5歳を終えた。
距離を縮めた。1000mも走って見た。ダートも走って見た。
明りは見えない。
闇に沈んだゴスホークケン。
京成杯オータムハンデ・芝1600mでは32秒8で逃げた。
1000m地点55秒9の殺人ペースで逃げたゴスホークケン。
卓越したスピードはある。
アイビスサマーダッシュ・直線1000m戦では、57秒8。
1600mの通過タイムの方がはるかに速かった。
早熟? 極度な? 2歳で終わってしまう?
精神面の問題、騎手を替え、あらゆる角度から精神を鍛えようとした斎藤厩舎。
厳しい調教で馬体改造に取り組んだ手塚厩舎。
成果はない。
2011年、1月。ニューイヤーS。
逃げて9着。
これを最後に引退した。
幸いに日高スタリオンステーションで種牡馬として繋養されることとなった。
15戦2勝、着外13回。
どれほどの牝馬が集まるか?
たとえ1頭であろうと、望みを捨てるなゴスホークケン。
おまえの朝日杯の強さは、本物。
何がおまえを変えたのか? わからない。
生来、走ることが好きだったはずのゴスホークケン。
京成杯の殺人ペースは、そのことを伝えたかったんだよね。
出そうと思えば、これぐらいのスピードはあるよ。
言いたかったんだよね。
何かがおまえを、性悪馬にしてしまった。
性悪馬じゃない、ただ、走ることが嫌いにさせられただけなのに。
辛かっただろう。
もう、嫌々走ること、
しなくていいんだよ。
ひたすらゴールをめざす。
「この馬は、ほんとに走ることが好きなんですよね」
調教師から、よく言われる言葉。
もし、走ることが、
嫌になった馬がいたら、
また、悲しい。
走る本能さえも奪われ、
走らされ続けるだけ。
こんな残酷なことはない。
ゴスホークケン。
父バーンスタイン、母オールザウェイベイビー。母の父グランドスラム。
2005年、3月3日。アメリカで生まれ、『マルターズ』、『シベリアン』の冠で知られる馬主、故・藤田与志男氏によってセールで買われ、日本にやってきた。
バーンスタイン産駒を探し求めていた藤田氏にとって、黒鹿毛の雄大な馬体は、ひと際目を引いた存在だった。
ゴスホーク(オオタカ)+ケン(犬)、オオタカと犬がなぜ一緒になったか?
謎ではあるが、
音の響きからは、底知れぬ強さを感じさせた。
2007年、10月。新馬戦・芝1600mデビュー。
調教から目立っており、単勝1.7倍、断トツ人気だった。
5番手から、直線、持ったままでで先頭に立ち、1度もムチを入れることもなく圧勝した。
2着ロングキーブリッジに2馬身2分の1差。1分34秒9。
新馬戦後、骨膜が出たため十分な調教ができず、2戦目の東京スポーツ杯2歳Sは4着と敗れた。
脚元の不安でウッドチップでは強い調教ができない日々。
この時開設されたニューポリトラックコースによって救われた。
脚元に大きな負担をかけることなく、負荷をかけた調教ができた。
12月9日。朝日杯FS。
1番人気スズジュピター、2番人気アポロドルチェ、3番人気がゴスホークケンだった。
キャプテントゥーレ、ヤマニンキングリー、エーシンフォワードが人気で続き、混戦といわれた。
1番枠、ゴスホークケンはスタートするなり先手を奪い、残る15頭を引き連れて、ひたすら逃げた。
上がり3ハロン35秒2、最速の上がりを叩き出したのは、逃げたゴスホークケンだった。
逃げて、最速の上がり、負けようはずがない。
2馬身2分の1、2着のレッツゴーキリシマにつけた差は、3歳の頂点も保証するかのような大きなものだった。
1分33秒5、朝日杯史上2位タイのタイムで逃げ切ったゴスホークケン。
現実にNHKマイルカップから日本ダービー、さらにはブリターズカップまで視野に入れられた。
ゴスホークケンの3歳のビジョン。
2008年、4月。ニュージーランドTから復帰したゴスホークケン。
12着と惨敗。
続くNHKマイルカップもディープスカイの12着と敗退。
函館スプリントS5着、キーンランドS10着、京成杯オータムハンデ15着。
休養に入った。
強い2歳の面影は、消え失せた。
ブリダーズカップへの挑戦の野望はいつしか霧と消えた。
馬主・藤田与志男氏が亡くなり、斎藤誠厩舎から手塚貴久厩舎に転厩。
アイビスサマーダッシュ15着、朱鷺S17着、バレンタインS13着。
東風S9着、欅S16着、福島テレビオープン12着。
5歳を終えた。
距離を縮めた。1000mも走って見た。ダートも走って見た。
明りは見えない。
闇に沈んだゴスホークケン。
京成杯オータムハンデ・芝1600mでは32秒8で逃げた。
1000m地点55秒9の殺人ペースで逃げたゴスホークケン。
卓越したスピードはある。
アイビスサマーダッシュ・直線1000m戦では、57秒8。
1600mの通過タイムの方がはるかに速かった。
早熟? 極度な? 2歳で終わってしまう?
精神面の問題、騎手を替え、あらゆる角度から精神を鍛えようとした斎藤厩舎。
厳しい調教で馬体改造に取り組んだ手塚厩舎。
成果はない。
2011年、1月。ニューイヤーS。
逃げて9着。
これを最後に引退した。
幸いに日高スタリオンステーションで種牡馬として繋養されることとなった。
15戦2勝、着外13回。
どれほどの牝馬が集まるか?
たとえ1頭であろうと、望みを捨てるなゴスホークケン。
おまえの朝日杯の強さは、本物。
何がおまえを変えたのか? わからない。
生来、走ることが好きだったはずのゴスホークケン。
京成杯の殺人ペースは、そのことを伝えたかったんだよね。
出そうと思えば、これぐらいのスピードはあるよ。
言いたかったんだよね。
何かがおまえを、性悪馬にしてしまった。
性悪馬じゃない、ただ、走ることが嫌いにさせられただけなのに。
辛かっただろう。
もう、嫌々走ること、
しなくていいんだよ。