大器晩成。

いや、晩成過ぎる大器。


それがタップダンスシチーだった。

父プレザントタップ、母オールダンス。母の父ノーザンダンサー。


1993年3月16日、アメリカ・ケンタッキー生まれの鹿毛の仔馬が日本にやってきた。

「シチー」の冠名で知られる友駿ホースクラブの一員として、名は父と母からとられたタップダンスシチー。

1口6万円×500口。3000万円の馬が、10億8400万円、36倍もの賞金を稼いだ。



2000年3月、遅めのデビュー。4戦目に京都新聞杯でアグネスフライトの3着で力の片鱗は見せていた。

とはいえ、オープン馬となったのはデビューから19戦目、日経賞2着。5歳、3月だった。


9月、朝日チャレンジカップで重賞初制覇。佐藤哲三と初コンビを組み、以降、すべて鞍上には佐藤哲三がいた。

先行押し切り、逃げ押し切り、タップダンスシチーの強い競馬のパターンはこの頃から、固まりつつあった。


重賞常連からG1常連へ。


きっかけは暮れの有馬記念。

もう、6歳近くで初のG1挑戦は13番人気だった。


ファインモーションの2番手を追走、向う正面で先頭に立ち、そのまま押し切りをねらったが、シンボリクリスエスに差され、半馬身差2着。


2003年、6月、宝塚記念。

1番人気シンボリクリスエス、2番人気ネオユニバースに先着するもヒシミラクル、ツルマルボーイに敗れ、3着。


「パドックで名前の通りタップダンスを踊っている」気性の激しさから2人曳きだったが、10月の京都大賞典から1人曳きができるようになった。「タップダンスを踊らなくなって、本物になったと思った」語る佐々木晶三調教師。


京都大賞典を逃げ切り勝ちし、6歳秋でようやく本格化したか、タップダンスシチー。


晩成すぎる大器はデータへの挑戦が始まった。


11月、ジャパンカップ。日本馬6歳以上勝ち馬は0。

1番人気シンボリクリスエス(菊花賞、有馬記念)4歳、2番人気ネオユニバース(皐月賞、ダービー)3歳。


逃げたタップダンスシチーは直線も衰えるどころか、逃げ足をさらに伸ばして、2着のザッツザプレンティ(菊花賞)3歳に9馬身もの差をつけてゴールした。


暮れの有馬記念ではザッツザプレンティ、アクティブバイオの乱ペースに巻き込まれ8着と惨敗。




2004年、6月。宝塚記念。G1となって以降、7歳以上勝ち馬0。

逃げるローエングリン、ホットシークレットの3番手キープ。


自信満々に3コーナーでローエングリンを抜いて、先頭に立った。


そこからのロングスパート。


敵はリンカーン、ゼンノロブロイ、ザッツザプレンティ、若き4歳。


来るなら来いッ!


軽快なタップダンスならぬ王者のステップを見せた。


華麗な舞とともに、崩れぬリズム。


7歳? 年など関係ない!


データ? そんな記録はブチ破ればいいッ!


タップダンスシチーはシルクフェイマスを2馬身ちぎり、

レコードタイムで宝塚記念を制した。




世界へ。凱旋門賞に挑戦も、飛行機便のトラブルで日程が狂い、バゴの17着と惨敗。


暮れの有馬記念は逃げてゼンノロブロイの2着。



8歳はさすがに年齢を感じるレースが続き、G1惨敗。

引退、種牡馬となった。


初年度は163頭、以後、127頭、77頭、50頭、と推移。2010年6頭、11年1頭のみとなり、このほど種牡馬引退、ノーザンホースパークで乗馬となった。

晩成すぎるほど晩成のタップダンスシチーの仔。もっと長い目でみてやっても・・・。


と思いつつ、


お疲れさん。



余生は、いつまでも訪れる人に、軽やかにタップダンスを見せておくれ。



と、安息な日々を願う気持ちでいっぱいだ。