かつて軍用馬の育成、供給という建前から始まった日本のサラブレッド生産。
軍事用の観点から毛色が目立つ芦毛馬は嫌われた。
戦後、軍事用から切り離されたサラブレッド生産。ようやく、解放された芦毛馬。
しかし、絶対数の少なさから活躍馬は出なかった。
戦後25年、1970年、メジロアサマが天皇賞を勝つまで、大レースの勝ち馬はない。
プレストウコウ、メジロテイターン、ダイシンフブキ、タマモクロス、オグリキャップ、ウィナーズサークル、ハクタイセイ、メジロマックイーン、プレクラスニー、ビワハヤヒデ、オグリローマン、ファビラスラフィン、セイウンスカイ、アドマイヤコジーン、クロフネ、ヒシミラクル、フサイチリシャール、ローブデコルテ、キャプテントゥーレ、ジョーカプチーノ、レーヴディソール。
歴史の中で『芦毛伝説』をつくり上げた馬たち。
芦毛最強といわれるタマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、セイウンスカイ。
クラシックの最高峰といわれるダービー馬はいない。
歴代唯一の芦毛ダービー馬。
それは、茨城県産唯一のG1馬でもあるウィナーズサークルだ。
父シーホーク、母クリノアイバー。母の父グレートオンワード。
1986年、4月10日。茨城県江戸崎町・栗山牧場で生を受けたウィナーズサークル。
馬産地・北海道から遠く離れた茨城県産。当時、1万頭から生産されるサラブレッド界において、茨城県産はわずか34頭だった。
それでも、牧場の期待を一身に集めていた。北海道に比べ土地が狭く、難点の多い茨城で頑(かたく)なに生産に取り組んできた栗山牧場。
「なんとしても、茨城で北海道に負けない名馬をつくる」
栗山博氏の想いは、執念に近かった。
栗山牧場の繁殖馬のなかでエース的存在のクリノアイバー、3冠馬ミスターシービーを管理した松山康久調教師の勧めでシーホークが付けられた。
モンテプリンス、モンテファスト、2頭の天皇賞馬兄弟を出しているシーホーク。ステイヤーとしての血で知られ、ウィナーズサークルのめざすものは、生まれながらにしてダービーであり、より長い距離のステイヤーであった。
シーホークが芦毛であることから芦毛として生まれたウィナーズサークル。
その芦毛はびっくりするほど、白かった。
生まれた時は銀色よりはグレイ、黒っぽい毛色の芦毛馬。年を経るにつれて白さを増すのが芦毛の特徴。
ウィナーズサークルのその白さは、牧場に驚きと多大なる期待感を与えた。
根拠なき期待感ではあったが、
「もしかすると、神の子かもしれない」
すくすく育ったウィナーズサークルは美浦・松山厩舎に入厩。
その調教での動きから評判を呼ぶようになった。
1988年、7月。福島でデビューしたウィナーズサークル。1番人気、松山師は勝ち負けを意識して送り出した。
だが、とんでもないウィナーズサークルの気性を知ってしまうことになる。
勝つことを嫌う、かのように他の馬を交わして先頭に立つことを嫌がった。直線、騎手に反抗し前に出ない。
後続にも差され、2秒以上離され4着に終わった。
神の子は、心優しすぎる天使だったのか?
競馬場で勝者のみが入れるウィナーズサークル。
その名を持ちながら、勝つことを好まないウィナーズサークル。
松山師は、その手綱を剛腕・郷原洋行に委ねた。
他の馬より速くゴールを駆け抜けること、それが競走馬の宿命。競馬というものをウィナーズサークルに教え込む。
郷原とウィナーズサークルの二人三脚(一人一馬六脚?)はそこから始まった。
先行、好位につけて、直線、楽々と先頭に立てる手応え。
郷原の剛腕をもってしても、ウィナーズサークルは先頭に立たなかった。
2戦連続2着。
1989年1月、ダート未勝利戦、ようやくウィナーズサークルは勝ち上がった。
郷原の指示に即反応したのではなく、2着馬がバテたにすぎない。
その証拠に、続く2戦をともに2着、勝つことをためらうウィナーズサークルだった。
後方で脚を溜めれば、どれだけ切れるか?
郷原は試す余裕もない。前へ行かせ、先頭に立つこと、勝つことをわからせる。それしか、なかったのだ。
3月、ダート戦、ウィナーズサークルはついに覚醒したか? 2着馬を7馬身ぶっちぎり2勝目を上げた。
皐月賞をひと月前にして、ようやく2勝目を上げた。
4歳(現表記3歳)クラシック戦線は混沌としていた。
3歳王者・サクラホクトオーは弥生賞の不良馬場で12着惨敗。弥生賞を制したレインボーアンバーなど有力馬が次々と出走回避。
2勝馬ウィナーズサークルでも、抽選を突破すれば出走可能。
クラシック戦線へ挑むこととなった。
松山師の目標はあくまでダービー。抽選を突破した時に郷原に師は言った。
「とにかくダービーの優先出走権(当時は5着以内)を獲ってくれ」
勝つことを求められない郷原は、ウィナーズサークルの脚を始めて試すことができた。
後方で脚を溜めて、どれだけ切れるか?
降り続いた雨で最悪の道悪といわれた馬場で、郷原は後方でウィナーズサークルとともに、満を持した。
直線、早めに抜け出したのは北海道道営出身のドクタースパートだった。
同じ道営出身の父ホスピタリティの悲願を受け継いだ、ドクタースパートの鬼気迫る差脚。
それを上回る鬼脚を見せて迫ったのがウィナーズサークルだった。
2分の1馬身差、2着。
郷原にとっては十分すぎる手応えだった。
5月28日、日本ダービー。
戦国ダービーといわれた。
1番人気、若草Sで2着馬を1.4秒ちぎったロングシンホニー。2番人気、父がダービー馬クライムカイザーというマイネルブレーブ。ともに皐月賞不出走。
3番人気、ウィナーズサークル。4番人気、ドクタースパート。皐月賞1,2着馬が3,4番人気という混戦。
皐月賞は道営出身の期待を一身に集めたドクタースパート。
ダービーは茨城県産の期待を、栗山牧場の期待を一身にウイナーズサークルが・・・。
そして、入厩から「期待はダービー」、松山師の相場眼に狂いはなかったか?
好スタートから1コーナーを3,4番手、そこから、じりじりと下げ、中団後方で前を見つめる郷原。
その手綱から伝わる感触。皐月賞で試したウィナーズサークルの鬼脚。
剛腕。郷原は確信を持っていた。
勝つことを嫌がる、心優しき? 戦士。
勝たなくては、勝つのがおまえの生き様。
神の子じゃない! おまえは、おまえは勝たなくては。
ウィナーズサークル、勝者のみに与えられる領域。
おれは、おれは、おまえをそこに連れて行く!
おまえのダダなど通用しない。
おれは、剛腕、郷原だぁぁぁああーっ!
直線、抜け出したリアルバースデー、大外から追い込むサーペンアップ。
郷原の目には何も写ってはいない。
突き進むはゴール板のみ。
何者にも負けない自信があった。
郷原とともに弾けて、跳んだ、白い馬体!
栄光のゴールへ真っ先に飛び込んだ。
喜びにあふれる東京競馬場・ウイナーズサークル。
そこにある白い馬体、ウイナーズサークル。
安堵感に額の汗を拭う、剛腕・郷原の笑顔があった。
軍事用の観点から毛色が目立つ芦毛馬は嫌われた。
戦後、軍事用から切り離されたサラブレッド生産。ようやく、解放された芦毛馬。
しかし、絶対数の少なさから活躍馬は出なかった。
戦後25年、1970年、メジロアサマが天皇賞を勝つまで、大レースの勝ち馬はない。
プレストウコウ、メジロテイターン、ダイシンフブキ、タマモクロス、オグリキャップ、ウィナーズサークル、ハクタイセイ、メジロマックイーン、プレクラスニー、ビワハヤヒデ、オグリローマン、ファビラスラフィン、セイウンスカイ、アドマイヤコジーン、クロフネ、ヒシミラクル、フサイチリシャール、ローブデコルテ、キャプテントゥーレ、ジョーカプチーノ、レーヴディソール。
歴史の中で『芦毛伝説』をつくり上げた馬たち。
芦毛最強といわれるタマモクロス、オグリキャップ、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、セイウンスカイ。
クラシックの最高峰といわれるダービー馬はいない。
歴代唯一の芦毛ダービー馬。
それは、茨城県産唯一のG1馬でもあるウィナーズサークルだ。
父シーホーク、母クリノアイバー。母の父グレートオンワード。
1986年、4月10日。茨城県江戸崎町・栗山牧場で生を受けたウィナーズサークル。
馬産地・北海道から遠く離れた茨城県産。当時、1万頭から生産されるサラブレッド界において、茨城県産はわずか34頭だった。
それでも、牧場の期待を一身に集めていた。北海道に比べ土地が狭く、難点の多い茨城で頑(かたく)なに生産に取り組んできた栗山牧場。
「なんとしても、茨城で北海道に負けない名馬をつくる」
栗山博氏の想いは、執念に近かった。
栗山牧場の繁殖馬のなかでエース的存在のクリノアイバー、3冠馬ミスターシービーを管理した松山康久調教師の勧めでシーホークが付けられた。
モンテプリンス、モンテファスト、2頭の天皇賞馬兄弟を出しているシーホーク。ステイヤーとしての血で知られ、ウィナーズサークルのめざすものは、生まれながらにしてダービーであり、より長い距離のステイヤーであった。
シーホークが芦毛であることから芦毛として生まれたウィナーズサークル。
その芦毛はびっくりするほど、白かった。
生まれた時は銀色よりはグレイ、黒っぽい毛色の芦毛馬。年を経るにつれて白さを増すのが芦毛の特徴。
ウィナーズサークルのその白さは、牧場に驚きと多大なる期待感を与えた。
根拠なき期待感ではあったが、
「もしかすると、神の子かもしれない」
すくすく育ったウィナーズサークルは美浦・松山厩舎に入厩。
その調教での動きから評判を呼ぶようになった。
1988年、7月。福島でデビューしたウィナーズサークル。1番人気、松山師は勝ち負けを意識して送り出した。
だが、とんでもないウィナーズサークルの気性を知ってしまうことになる。
勝つことを嫌う、かのように他の馬を交わして先頭に立つことを嫌がった。直線、騎手に反抗し前に出ない。
後続にも差され、2秒以上離され4着に終わった。
神の子は、心優しすぎる天使だったのか?
競馬場で勝者のみが入れるウィナーズサークル。
その名を持ちながら、勝つことを好まないウィナーズサークル。
松山師は、その手綱を剛腕・郷原洋行に委ねた。
他の馬より速くゴールを駆け抜けること、それが競走馬の宿命。競馬というものをウィナーズサークルに教え込む。
郷原とウィナーズサークルの二人三脚(一人一馬六脚?)はそこから始まった。
先行、好位につけて、直線、楽々と先頭に立てる手応え。
郷原の剛腕をもってしても、ウィナーズサークルは先頭に立たなかった。
2戦連続2着。
1989年1月、ダート未勝利戦、ようやくウィナーズサークルは勝ち上がった。
郷原の指示に即反応したのではなく、2着馬がバテたにすぎない。
その証拠に、続く2戦をともに2着、勝つことをためらうウィナーズサークルだった。
後方で脚を溜めれば、どれだけ切れるか?
郷原は試す余裕もない。前へ行かせ、先頭に立つこと、勝つことをわからせる。それしか、なかったのだ。
3月、ダート戦、ウィナーズサークルはついに覚醒したか? 2着馬を7馬身ぶっちぎり2勝目を上げた。
皐月賞をひと月前にして、ようやく2勝目を上げた。
4歳(現表記3歳)クラシック戦線は混沌としていた。
3歳王者・サクラホクトオーは弥生賞の不良馬場で12着惨敗。弥生賞を制したレインボーアンバーなど有力馬が次々と出走回避。
2勝馬ウィナーズサークルでも、抽選を突破すれば出走可能。
クラシック戦線へ挑むこととなった。
松山師の目標はあくまでダービー。抽選を突破した時に郷原に師は言った。
「とにかくダービーの優先出走権(当時は5着以内)を獲ってくれ」
勝つことを求められない郷原は、ウィナーズサークルの脚を始めて試すことができた。
後方で脚を溜めて、どれだけ切れるか?
降り続いた雨で最悪の道悪といわれた馬場で、郷原は後方でウィナーズサークルとともに、満を持した。
直線、早めに抜け出したのは北海道道営出身のドクタースパートだった。
同じ道営出身の父ホスピタリティの悲願を受け継いだ、ドクタースパートの鬼気迫る差脚。
それを上回る鬼脚を見せて迫ったのがウィナーズサークルだった。
2分の1馬身差、2着。
郷原にとっては十分すぎる手応えだった。
5月28日、日本ダービー。
戦国ダービーといわれた。
1番人気、若草Sで2着馬を1.4秒ちぎったロングシンホニー。2番人気、父がダービー馬クライムカイザーというマイネルブレーブ。ともに皐月賞不出走。
3番人気、ウィナーズサークル。4番人気、ドクタースパート。皐月賞1,2着馬が3,4番人気という混戦。
皐月賞は道営出身の期待を一身に集めたドクタースパート。
ダービーは茨城県産の期待を、栗山牧場の期待を一身にウイナーズサークルが・・・。
そして、入厩から「期待はダービー」、松山師の相場眼に狂いはなかったか?
好スタートから1コーナーを3,4番手、そこから、じりじりと下げ、中団後方で前を見つめる郷原。
その手綱から伝わる感触。皐月賞で試したウィナーズサークルの鬼脚。
剛腕。郷原は確信を持っていた。
勝つことを嫌がる、心優しき? 戦士。
勝たなくては、勝つのがおまえの生き様。
神の子じゃない! おまえは、おまえは勝たなくては。
ウィナーズサークル、勝者のみに与えられる領域。
おれは、おれは、おまえをそこに連れて行く!
おまえのダダなど通用しない。
おれは、剛腕、郷原だぁぁぁああーっ!
直線、抜け出したリアルバースデー、大外から追い込むサーペンアップ。
郷原の目には何も写ってはいない。
突き進むはゴール板のみ。
何者にも負けない自信があった。
郷原とともに弾けて、跳んだ、白い馬体!
栄光のゴールへ真っ先に飛び込んだ。
喜びにあふれる東京競馬場・ウイナーズサークル。
そこにある白い馬体、ウイナーズサークル。
安堵感に額の汗を拭う、剛腕・郷原の笑顔があった。