北海道平取町にある零細牧場、高橋啓牧場。

そこに預けられた1頭の牝馬テラミス。

地方岩手競馬で13戦2勝。繁殖牝馬としての価値も認められなかった。

「娘みたいなものだから、なんとか生き残らせたい」

馬主・小野寺良正氏は預託馬として受け入れ先を探しまわった。預託料を支払って牧場に預かってもらい、テラミスに繁殖牝馬として余生を送らせるつもりだった。

断られ続け、ようやく見つけたのが高橋啓牧場。



1994年6月6日、グランドオペラとの配合によって生まれたのがメイセイオペラだった。

父グランドオペラ、母テラミス。母の父タクラマカン。

グランドオペラは英3冠馬ニジンスキーの直仔。母グローリアスソングはカナダ年度代表馬、半弟にラーイ、シングスピールがいる良血ではあるが、自身は1戦0勝。1988年から日本で繋養されたが、さしたる馬も輩出しておらず、血統の割には安い種付け料が魅力でテラミスに付けられた。

母の父タクラマカンはアメリカ生まれの外国馬。日本で走って17戦7勝。重賞勝ちはなく種牡馬としても存在感はなかった。



小野寺氏の熱い思いがなかったら、生まれてくるはずのない仔馬メイセイオペラ。

あまりにも小さい仔馬だった。

競走馬として、何一つ良いところを認められないメイセイオペラ。牧場主・高橋啓氏は成長ぶりを小野寺氏に報告する時に悩んだ。誉めるべき点の無さに。


2歳(現表記1歳)夏、昼夜放牧に出されて馬が変わった。野生に近い環境のなかで、みるみる成長し、どんどん逞しくなった。

その成長ぶりに胸躍らせたのが、岩手競馬・水沢の調教師、佐々木修一氏だ。

小野寺氏を説得し、半ば強引に自厩舎入厩を決めた。



1996年7月、3歳。盛岡競馬場、中央に対するいわゆる地方馬としてメイセイオペラはデビューした。1000mダート。4馬身差で逃げ切った。

レースをナマで見れなかった小野寺氏は、家庭用ビデオで収録したレースを何度も、何度も繰り返してみては、将来の活躍に夢馳せたという。


そんな小野寺氏が、ひと月後に死去した。

一度としてナマでメイセイオペラのレースを見ることなく。

妻・明子さんは、すべのて馬を手放すことを考えた。


メイセイオペラは低迷した。4戦勝ち星なし。あの逃げ切りがウソのように、負け続けた。


「ほかの道楽はしない。だから馬を持たせてくれ」

明子さんに内緒で始めた馬主。発覚し小野寺氏が言った言葉。


馬は亡き夫の遺産。手放すに忍びない。

明子さんは馬主として続ける決心をした。心では夫とともに。

『メイセイ』、小野寺氏が付けた冠名。明子さんの『メイ』、小野寺良正氏の『セイ』だった。


再び活気を取り戻したメイセイオペラは快進撃を開始した。

連敗後、3歳から4歳にかけて9連勝。ほとんどをもったままで圧勝。東北みちのくでは敵なしの存在となった。

「あの馬の再来だ!」

岩手のファンは43戦39勝、2着3回、3着1回。『岩手の帝王』トウケイニセイを引き合いに出して、喜んだ。


岩手では敵なし。地方の雄トウケイニセイ。

だが、その声は中央には届かない。


中央地方交流重賞が行われ、地方馬、中央馬がしのぎを削ることとなった矢先。

願ってもないことだ。地方の力を見せてやれ!

岩手の競馬ファンの夢おどったレース南部杯。

トウケイニセイは中央のダート王・ライブリマウントの3着と敗れ、夢潰えた。


ハイセイコー、カツアール、オグリキャップ、イナリワン、地方競馬の雄が中央へ転厩、中央馬をなぎ倒す。

野武士といわれ、下克上といわれ、拍手喝采を浴びた。


メイセイオペラに課せられた期待は違った。

地方でも、レベルの高さで群を抜く南関東。

低いとされる岩手競馬。

その岩手競馬の所属のままで、中央を席巻する。

岩手の雄として、下克上。


『草競馬』といわれた時代もあった。

ならば、草競馬の馬が、いつか、大舞台で晴れ姿。

その思いを込められる、この馬ならば。



それが、メイセイオペラだった。



亡き馬主の想いなくば、生をも受けられなかった。

ノーザンダンサーの3×4、奇跡の血量18.75%をもつ馬。


(つづく)