1977年、3月30日、北海道浦河町、中脇牧場に生まれた牝の仔馬。
見栄えのしない小さ過ぎる仔馬は、激しく勝ち気な気性をもち、牧場ではリーダー格だった。
父フィルモンはネバーセイダイの直仔。祖父は大種牡馬ナスルーラ。
母コマンチは3勝を挙げ、父はムーティエ。ムーティエの母の父(ブルードメア・サイアー)がナスルーラ。
勝ち気さはムーティエから受け継いだか?
ムーテイエは身っ喰い(自らの胸前などを食いちぎる悪癖)するほどに、荒々しい気性の持ち主で有名だった。
気性の激しさは両刃の剣。調教も出きない荒くれ馬となるか、競馬においての勝負強い馬となるか、紙一重。
タニノムーティエ、ニホンピロムーテー、カミノテシオなどは、気性の激しさが生かされ名馬となった。
決して良血とはいえない。ただ一つの取り得は、この激しい気性からくる勝負魂だった。
そして、ナスルーラの3×4、18.75%、『奇跡の血量』をもっていた。
小さな仔馬は栗東・布施正厩舎に入厩し、名をラフオンテースと付けられた。
どこか違和感ある響き。ラフオンテーヌのはずだった。ラ・フォンテーヌ(フランスの寓話詩人。泉という意味)に由来する命名が、馬名登録担当者の誤認によって、「ラフオンテース」意味なき名となった。
1979年、7月、小倉の地でデビュー。
芝1000m新馬戦、1着。2着に10馬身の差をつけた。
芝1200mフェニックス賞、1着。2着に5馬身差。
中京3歳(現表記2歳)S1着、デイリー杯3歳S1着。
暮れの阪神3歳S、ノースガスト(翌年菊花賞馬)、オペックホース(翌年ダービー馬)の牡馬を相手に完勝。
5連勝。400㌔にも満たない小さな馬が、一躍、桜花賞最有力候補となった。
ただ、一途に走ったラフオンテース。
名家の血筋でもない、デビューはローカル小倉。
いわば、成り上がり。
ひたむきな走りから「根性娘」と呼ばれた。
同期にいた『華麗な一族』のお嬢さま、ハギノトップレディと好対照の根性娘ラフオンテース。
4歳初戦、きさらぎ賞。4コーナー、先頭に並びかけようとした時、外へ斜行したノトダイバーに弾かれた。小さなラフオンテースは外にいたシンボルシチーとも接触、大きく体勢を崩し後退。
そこから、矢のような伸びを見せたがタイム差なしの3着。
負けて強し、評価はさらに上がった。
歯車が一つ狂い、やがてラフオンテースの命運まで捻じ曲げることを、誰一人、気づいていなかった。
ラフオンテースの勝負魂に黒い影が差した。
さすがのラフオンテースも、小さ過ぎる自分が他馬と接触すると一溜まりもないことを、身を持って知ってしまった。
恐怖心、馬群に突っ込めないラフオンテース。
トライアル阪神4歳牝馬特別では最後方から差したが、2着。
桜花賞、戦列復帰したお嬢さまハギノトップレディの逃げ切りの前に、4着に追い上げるのが精一杯。
敗戦後、さらに脚部不安にも悩まされる。
きさらぎ賞から、続けて15連敗の道をたどることとなった。
5連勝、15連敗。
その境目に、きさらぎ賞の悪夢があった。
ラフオンテースは、勝負を投げ出したわけではない。
2着3回、3着3回、最悪着順は8着。
一途に走ることに変わりはなかった。
それだけに、鞍上・岩元市三はラフオンテースが可哀そうで、勝たせてやれない自分が歯痒くて仕方がなかった。
集団就職で来阪、花屋で働き、27歳で騎手となった苦労人、岩元。
ラフオンテースをかわいがり、ラフオンテースも岩元に甘えた。
ラフオンテースと岩元に再び光が射した。
1981年、7月。小倉競馬場。
5歳夏、デビューの地にラフオンテースは戻ってきた。
小倉日経賞、芝1700m、1分40秒7(日本レコード)、1着。2着に7馬身差。
北九州記念、芝1800m、1着。2着に7馬身差。
小倉記念、芝2000m、1着。400㌔のラフオンテースには酷量の58.5㌔。
阪神、朝日チャレンジカップ、芝2000m、1着。2着はダービー馬オペックホース。
4連勝。見事な復活。
なぜ? 何が変わったか? なぞのまま。
天皇賞秋、芝3200m、6着。
ジャパンカップ、芝2400m、12着。
阪神大賞典、芝3000m、4着。
一途に走り切ってきたラフオンテースには、もう、余力はなかった。
6歳、京都記念11着、鳴尾記念11着、宝塚記念11着。
1982年、6月、引退。競走生活の幕を閉じた。
北へ帰る馬運車に乗る時、岩元騎手を見つけ、しばらく動かず、じっと岩元を見つめていたという。岩元も涙が止まらなかった。
ふるさと中脇牧場に繁殖牝馬として戻ったラフオンテース。
1983年、ニゾンが種付けられ、無事受胎。
5月28日、放牧中に突然走りだし、牧柵に激突。腰骨を骨折、安楽死処分となった。
なぜに? ラフオンテースの心に何があったのか? なぞのままだ。
間違いない事実としてあるのは、
ラフオンテースが自らぶつかって行った牧柵は、
栗東の方向にあったという。
ラフオンテース、その一途な気性、内に秘めた激しさは、われわれの想像を越えていたかもしれない。
見栄えのしない小さ過ぎる仔馬は、激しく勝ち気な気性をもち、牧場ではリーダー格だった。
父フィルモンはネバーセイダイの直仔。祖父は大種牡馬ナスルーラ。
母コマンチは3勝を挙げ、父はムーティエ。ムーティエの母の父(ブルードメア・サイアー)がナスルーラ。
勝ち気さはムーティエから受け継いだか?
ムーテイエは身っ喰い(自らの胸前などを食いちぎる悪癖)するほどに、荒々しい気性の持ち主で有名だった。
気性の激しさは両刃の剣。調教も出きない荒くれ馬となるか、競馬においての勝負強い馬となるか、紙一重。
タニノムーティエ、ニホンピロムーテー、カミノテシオなどは、気性の激しさが生かされ名馬となった。
決して良血とはいえない。ただ一つの取り得は、この激しい気性からくる勝負魂だった。
そして、ナスルーラの3×4、18.75%、『奇跡の血量』をもっていた。
小さな仔馬は栗東・布施正厩舎に入厩し、名をラフオンテースと付けられた。
どこか違和感ある響き。ラフオンテーヌのはずだった。ラ・フォンテーヌ(フランスの寓話詩人。泉という意味)に由来する命名が、馬名登録担当者の誤認によって、「ラフオンテース」意味なき名となった。
1979年、7月、小倉の地でデビュー。
芝1000m新馬戦、1着。2着に10馬身の差をつけた。
芝1200mフェニックス賞、1着。2着に5馬身差。
中京3歳(現表記2歳)S1着、デイリー杯3歳S1着。
暮れの阪神3歳S、ノースガスト(翌年菊花賞馬)、オペックホース(翌年ダービー馬)の牡馬を相手に完勝。
5連勝。400㌔にも満たない小さな馬が、一躍、桜花賞最有力候補となった。
ただ、一途に走ったラフオンテース。
名家の血筋でもない、デビューはローカル小倉。
いわば、成り上がり。
ひたむきな走りから「根性娘」と呼ばれた。
同期にいた『華麗な一族』のお嬢さま、ハギノトップレディと好対照の根性娘ラフオンテース。
4歳初戦、きさらぎ賞。4コーナー、先頭に並びかけようとした時、外へ斜行したノトダイバーに弾かれた。小さなラフオンテースは外にいたシンボルシチーとも接触、大きく体勢を崩し後退。
そこから、矢のような伸びを見せたがタイム差なしの3着。
負けて強し、評価はさらに上がった。
歯車が一つ狂い、やがてラフオンテースの命運まで捻じ曲げることを、誰一人、気づいていなかった。
ラフオンテースの勝負魂に黒い影が差した。
さすがのラフオンテースも、小さ過ぎる自分が他馬と接触すると一溜まりもないことを、身を持って知ってしまった。
恐怖心、馬群に突っ込めないラフオンテース。
トライアル阪神4歳牝馬特別では最後方から差したが、2着。
桜花賞、戦列復帰したお嬢さまハギノトップレディの逃げ切りの前に、4着に追い上げるのが精一杯。
敗戦後、さらに脚部不安にも悩まされる。
きさらぎ賞から、続けて15連敗の道をたどることとなった。
5連勝、15連敗。
その境目に、きさらぎ賞の悪夢があった。
ラフオンテースは、勝負を投げ出したわけではない。
2着3回、3着3回、最悪着順は8着。
一途に走ることに変わりはなかった。
それだけに、鞍上・岩元市三はラフオンテースが可哀そうで、勝たせてやれない自分が歯痒くて仕方がなかった。
集団就職で来阪、花屋で働き、27歳で騎手となった苦労人、岩元。
ラフオンテースをかわいがり、ラフオンテースも岩元に甘えた。
ラフオンテースと岩元に再び光が射した。
1981年、7月。小倉競馬場。
5歳夏、デビューの地にラフオンテースは戻ってきた。
小倉日経賞、芝1700m、1分40秒7(日本レコード)、1着。2着に7馬身差。
北九州記念、芝1800m、1着。2着に7馬身差。
小倉記念、芝2000m、1着。400㌔のラフオンテースには酷量の58.5㌔。
阪神、朝日チャレンジカップ、芝2000m、1着。2着はダービー馬オペックホース。
4連勝。見事な復活。
なぜ? 何が変わったか? なぞのまま。
天皇賞秋、芝3200m、6着。
ジャパンカップ、芝2400m、12着。
阪神大賞典、芝3000m、4着。
一途に走り切ってきたラフオンテースには、もう、余力はなかった。
6歳、京都記念11着、鳴尾記念11着、宝塚記念11着。
1982年、6月、引退。競走生活の幕を閉じた。
北へ帰る馬運車に乗る時、岩元騎手を見つけ、しばらく動かず、じっと岩元を見つめていたという。岩元も涙が止まらなかった。
ふるさと中脇牧場に繁殖牝馬として戻ったラフオンテース。
1983年、ニゾンが種付けられ、無事受胎。
5月28日、放牧中に突然走りだし、牧柵に激突。腰骨を骨折、安楽死処分となった。
なぜに? ラフオンテースの心に何があったのか? なぞのままだ。
間違いない事実としてあるのは、
ラフオンテースが自らぶつかって行った牧柵は、
栗東の方向にあったという。
ラフオンテース、その一途な気性、内に秘めた激しさは、われわれの想像を越えていたかもしれない。