1918年 7月23日 米騒動の日 暴動 打ち壊し・・・ | いさお企画合同会社のブログ

いさお企画合同会社のブログ

スタッフブログです。

こんにちは!

 

いさお企画(同)の守屋です。

 

7月23日は 1918 米騒動があった日ですね。

 

学校の歴史で習ったと思いますが・・・・

 

私は米は大好きです。 お茶漬け、お寿司、カレーライス、炒飯など・・・

 

 

1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、1918年(大正7年)に日本で発生した、コメの価格急騰にともなう暴動事件、米騒動。

 

1918(大正7)年7月23日、富山県魚津の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を起こし、全国にまで広がった米騒動の始りとなりました。

 

 

 寺内内閣

 

社会不安

米価の暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米の価格高騰を知らせて煽ったこともあり、社会不安を増大させた。寺内正毅内閣総理大臣は1918年(大正7年)5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか3万5,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算編成になっているとはいえなかった。

 

このため、警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が採られ、巡査を増員するという措置が採られた。

 

労働者の団結権すらなかったこの時代、厳しい抑圧と苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになっていった。

 

シベリア出兵

米価が徐々に上昇していくなか、寺内内閣は1918年(大正7年)8月2日、対外政策としてシベリア出兵を宣言した。この宣言は流通業者や商人などが戦争特需における物資高騰を狙い、売り惜しみをさらに加速させていくという状況を発生させた。事実、神戸米会所における相場では、7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰している[16]。また、時を前後して富山県での騒動が発生していることなどから、シベリア出兵と米騒動の直接的な因果関係を指摘するものもある。

 シベリア出兵

 

 

騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇

「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[21]。呉市では海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙するなか、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は2万5,000人を超え、8,253名が検事処分を受けた。また7,786名が起訴[22]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。

 

 

はいからさんが通るでも描かれていました。上矢印

 

政府対応

政府は8月13日に1,000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。

 

平民宰相の誕生

 

米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。

 

寺内は体調不良もあり8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。

 

山縣は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。

 

爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。

 

 

 

結局は 景気が良くなれば解決したようですが、ここまでの暴動、騒動はないにしても

 

 最近では コロナでマスクの奪い合いなどをニュースなどで報道されていました。ショボーン

 

この時代は現代と違い おかずの種類が少なく、戦争などもありましたから大変だと・・・滝汗

 

早く コロナが収束すればよいと思います。爆  笑