人と話をするときは、同じ事を声で聴くよりも文章で聴く方がやりやすい。
声が入るとどうしても話している声の調子の方にも注意を向けなければならなくなって、必要な情報がどれかわからなくなる。
喜怒哀楽がどんどん乗れば乗るほど文章と内容が乖離していくから大変である。
怒っているのか悲しんでいるのかという情報を言葉にかけ算して計算しなければならず、感情の計算が苦手な自分にはつらい。
普通に話すぶんには少しは何とかするが、感情が言語を超越して、自分の限界を超えるともうどうにもならない。
文章なら文章の裏に含まれた意味があっても声という感情が入っていないからまだわかる。
言葉の裏の意味というのは、マナー書やネットで公になっているものに関して言えば、まだ実際に見れば学習できる方なので、
その場で新しい意味が付け加えられたりさえしなければ理解出来ないことではない。
しかしその場での人間の感情や表情が加わると途端に意味が読みにくくなってくる。
酷いときは感情や表情が言葉のすべてを覆って聞いている言葉の意味なんてなくなってしまう。
ひどく無表情だと言われそうになるが自分の話している内容に関しては感情をなるべく入れたくない。
怒号とか剣幕とか論外である。
必要なことを伝えるのに感情を付け加える必要は無い。失礼にならない言葉遣いで必要なことを書けば済むことである。
感情を入れるならその旨敢えて文章にして書く。
よくクレームがどうだかとか言われるが怒りを伝えたい人の述べ立てている言葉ほど無意味なものはない。
怒りが先にあり、理由など怒りを伝えるための触媒に過ぎず、実際言っていることなんてどうでもいいかのようである。
何回事情を伝えても怒りの感情を引っ込めない人ほど私はそのように感じて見ている。
伝えることを伝えたらあとは帰るだけ、の自分にはとても理解できない。
誠に遺憾である。