昔に福祉の資格の研修でグループホームやデイサービスに行ったことがあるが、
その日のレクリエーションで適当な音楽でもかけることを何だか不快に思った。
心が加齢で衰えていれば激高し何かを振り回しているかもしれない。とにかくブチ切れるだろう。
特に注意もせず「この人々の生きている時代に合わせた選曲」をしようものなら。
それは傾向であって好みではない。単に被せるカテゴリーが被っただけのことであって、個人の嗜好に応じたものではない。
人の数だけ嗜好があって、多数決で常に決められるようであれば、
私のように洋楽のパンクやメタルやハードロックを聴いたりクラシック音楽を愛好する人間はポップスや歌謡曲の数の暴力に押し切られる。
そもそもあちこちで無思慮に流されるポップスの流れが嫌で、はみ出すようにメタルやクラシック音楽に逃げたのが私の過去である。
よりによって一番忌み嫌っている音楽を聞かされるなんてリラックスでも何でもない。苦役か修行か拷問の類である。
聴きたくもない音楽を聞かされるなんて暴力的な行為の最たるものである。何なら何も音楽がない方がありがたいとか言いかねない。
スーパーとかレストランとか居酒屋とかも同じように無思慮に音楽を流されるなら同じように不快になる。
場所は選べない上に曲も選べないなんて、何のために生きているかさえわからない。
音楽は聴くだけのものではない、精神であり生命である、その人の魂である。
昔にやっていた障害者雇用のバイト先のスピーカーから延々と同じ苦手な音楽が流されてメンタルをやられかけて、
「音楽どうにかなりませんか?」なんて直訴する人間はそんなにいないだろうが、
そこまで重篤でなくても誰もが多少なりとも音楽に対して何らかのこだわりをもっているのだろうと思いたいし、
人の前で自分の好きな音楽を無思慮に人に聞かせる人間にだけはなりたくない。
それこそ「人の嫌がることはしない」の最たるものだと自分は思うのである。
そういう意味で好みが多様化して分散するのは必然であるし、誰でも好む音楽なんてないと私は言いたくなる。
誠に遺憾である。