発達障害者にも補助具は欲しいと思う | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

なぜかホームセンターに割引き本が売られていて、『アスペルガーだと思ったら読む本』というのが置いてあるが、

もうなってるから特にいらないや、と思った今日この頃、皆様方におかれましては日々御健勝のこととお慶び申し上げます。


感情の処理が適切でないがために色々な人間関係のトラブルを抱えてどうしようもなかった自分の過去を鑑みるに、

自分の内側から良くしていく、礼節をわきまえて節度ある行動を心掛ける、にしても、

とても行儀正しいがすごく杓子定規で型にはまったような動きしかしなくなる。柔軟性なんてどこかに置き忘れてしまった。

しかし突発的に危機に陥ったり想定外のことになると、全体的に固まったり、口調が乱れたり、敬語が崩壊するから大変である。

これらの危機的状況は精神が安定していようと、抗不安薬で不安を抑えても脳の作用で出るものであるから抑えても抑えきれない。

発達障害が「障害」であるのは、想定外の事態で自分も周囲も大変なことになって日常生活に支障を来すから「障害」なのである。

しかし頭の中のことは訓練を積んだにしても限度というものがある。訓練より重い負荷がかかれば地が出てしまう。

かと言って重い訓練で定期的に継続的に負荷を精神にかけたら、それこそ何のために生きているのか理解できなくなる。


身体の障害で麻痺を起こして歩けなかったり、四肢が欠損していたり、また視覚や聴覚に障害があった場合、

完全に能力を補完するものでなくとも、車椅子や歩行補助の器具、白杖や補聴器、手話などの障害を補う手段が存在する。

発達障害にはそういうものはない。足りない成分を薬で補うとか、あっても今はADHDの多動を抑えるコンサータがあるだけで、

自閉症スペクトラムには現在症状自体を改善する薬というものはない。

ちょっと昔に何か見つかるかも、という話もあったが、今その話を聞かないということは、上手くいかなかったということである。

そういうことで身体障害者の補助具の立場に相当する何物も存在しない。足が無いのに足で歩けとか言われているようなものである。

SSTなどの訓練や心理療法を受けるにしても受けられる場所も時間も限られていて、

もし継続的にトレーニングを受けるとなれば大都市に定期的に通うだけで田舎の民はお金がすっ飛ぶ。

個人的な努力でも移動コストや経費等の限度というものが常に高くそびえて壁になっている。田舎に住んでいたらそもそも何も取り組めない。

療法や訓練のために家族から引き離されるとしたら何に心理的充足を求めれば良いのか。そんな状態で療法なんて受けても癒されるのか。訓練に値する精神状態を確保できるのか。


なので、今はやりのAIに会話を補助してもらうことで、足りない感情的処理や言葉以外の意味を補助できるようにならないか、

今は頼りなくてもいずれそうならないか、そうなってもらえないか、と甘い希望を抱くのである。

自閉症スペクトラム症の程度もあるが、百人居れば数人いるようなものを障害の一言で済ませることができるのか。

グレーゾーンを含めれば更に危うくなる人々も増えるのに障害と聞いたら別世界の出来事、なんて思うような少ない割合でもない。

それだけコミュニケーションに障害、あるいはグレーの人々がいれば、そこを補助する器具の開発も進められるべきである。

車椅子も杖も矯正器具も何だって使える物なら使いたい。それだけ心理療法までに至る門が狭く遠いものだからである。

ある人に発達障害の疑いがあって検査を依頼しようと心療内科に問い合わせても、

初診を受けるだけなのに何ヶ月も待つようなものをきちんと診察して取りこぼしがないとは言えない。

自力ではどうにもならないがどうにかしなければならないのも現実である。

福祉に繋がるのは必須としてもコミュニケーションに不備があれば、自分のことも、症状も、今の不利益の具体的な内容についても、

福祉の現場で正しく伝えられないのだから、そこを補助してきちんと福祉に繋がることができるようにするためのノウハウが必要になる。

会話に障害があるのならば会話を補助する器具を頼れる必要がある。保護者やヘルパーがいればいいが、いつもいつまでもいるわけではない。

ある程度は自力でなんとかする、しなければならないわけで、その時のための自分だけで動かせる補助具が求められるのである。

問題はAIが会話を補助してくれるという、理想的状況になるまで何年かかるかさっぱりわからない事ですが。

誠に遺憾である。