率直に言えば、昔宗教の勧誘をされてあちこちで酷い目にあったので、人から押し付けられる信仰は信仰ではないと思っている。
あくまでも自発的な、個々の内面から自然に押し出されるものが信仰である。そしてそれは人には押し付けるものではない。
感化される、という柔らかなつながりで拡がるならそれでもいいと思うが、
人を説得したり勧誘したり折伏したり教化したりセミナーを開いたりするようなことで本当に信仰につながるのか。
人付き合いという中の信仰はあるのか。それは人に引きずられて信仰している、人付き合いというものを維持するための信仰であり、
個人個人の内面から湧き出てくる人生に対する疑問を個人で解決するものではない。
宗教的な著作は溢れるほどにあるが、原典を自力で直接触れなければ、何を書いているか、何を訴えかけるのか、
そもそも何をもって信仰と為すのかも人伝で、伝言ゲームの要領で微妙に歪んで伝えられる。
だからこそ今現存している原典をあたるしかない。それもしないで人のことを信じたら、例えば仏教徒が次の日キリスト教徒に回心する程度に、
その人が急激に別な方向に路線変更しても、例え何があっても着いていくのか。
そういうものではないだろう。個々人の中に確固としたものがあって始めて信仰と言える。
今日は西に進み、明日は東に進む、というのであればいつまで経っても目的地には到達しない。
そういう人にはどう声をかければいいのか。自分は自分の道を一本にして進むだけである。
人とか風潮とか一切関係なく。人に救われるのは人に救われているのであり、信仰に救われているのではない。
内面から出るものを押し付けて外の刺激に自分の信念を委ねるなどできない。
今の価値観に惑わされないためには今を生きていない、歴史に残るものの教訓を紐解かねばならない。
それが世の中では聖典と言われているものである。
今と昔は違う道徳で存在しているとはいえ、残っている、読まれているということは、
その一冊に多くの教養、多くの人々の記憶や価値観の奥底に存在し続けているものである。
見ただけで放り投げられるような物だとは思わないし思ってもならない。
その経典を解釈した本をいくら読んでも経典自体を読んだことには決してならない。
都合のいい部分だけ断片的に切り出して前後の文脈を知らないことを知っているとは言えない。
解釈した本は導入として良いものではあるが、いずれは原典を開かなければいけない。
歴史に直に触れずして真髄の何に触れられるか。
誠に遺憾である。