多様性とは極論何も言わない言われないことである | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

多様性とは問題提起をするまでもなく何も言われないでそのままにある、ということである。

あれこれ言うのは多様性ではない。これを認めてくれと声を荒げるのはすでに多様性ではない。

その価値観が何もしなくても認められるのが真の多様性ではないだろうか。

文化的、歴史的な構造があって、そのあまりにも固定的な感覚に対して訴えなければならないのはそうだとは思うが、

意見が通って、法律や制度の整備がされた後もしつこくあれこれ掘り返したり啓蒙というわざとらしいキャンペーンを開いたり、

怪しげなマナー講師みたいなのを呼んできて講演会、まで来れば価値破壊、価値転換以外の何ものでもない。

多様性とは並立である。直列でもないし、ましてや上下などないのが理想である。

本来なら相当反社会的でない限りは誰も何も言わない問い詰めたりしない、あれこれ聞き出さない追い出さないとなれば、

きっとそれが真の多様性だろうと思う。特段犯罪や危険行為に及ばなければお互いに干渉しない。

干渉しないのをわざわざ蹴りに行ったり家に乗り込んだりするのがいるから問題になるのであって、

お互いに関係を持たず、お互いに干渉しない、騒音とかゴミなどの収集だけは最低限のルールを作って誰でも守り、

守れないのは多様性とは関係ないので粛々と手続きか法律に基づいて処理する、

など個人の心情に関わりない生活の上のルールをちゃんと決めて、個人の嗜好には深入りしない、

個人が個人として規則を守る限りはそのままであることが保障される、

昔なんて同性愛者を死刑で抹殺しに行くことも出来たし魔女裁判もやったから、今の心情だけで裁かれたりしないというのは進歩していると言える。

しかしここから先ジェンダーとかポリコレとか過度の是正、力を持った者への偏見による社会の強引な矯正、価値判断の強制的な植えつけ、

自分の目に入る限りは何を集めようと法律に引っかからない限りは自由だが、

それと全く同じ目で人にあれこれと、これを持てとか棄てろとかいうのが民主主義でないのは、

あらゆる価値判断が上意下達された専制国家、戦後の社会主義国、独裁国の歴史を学べば嫌というほど理解できるだろう。

何も言われないでいる、ということ、それこそが本物の多様性である。ことあるごとに言っている内は多様性ではない。

黒人とか白人とか黄色人種とかがその言葉だけの意味になるならば多様性は達成できたと言えるだろうが、そこはまだ遠いだろう。

価値判断には意図しなくても上下関係、これは好ましくあれは好ましくないという判断が混在される。

人間の行動というのは価値判断を意識的だけでなく無意識にやるから完全な多様性は達成できない。

しかし可能な限り人に向けて直接石や言葉の礫をぶつけようとしなければ、可能な限り多様性に近づくことはできる。

それを世代ごとに積み重ねることによって人間としての多様性に貢献できるのである。


草は気象の条件に応じて自然に生えてくる。多様性そのものである。

そこに人間が入ってきてある草を雑草呼ばわりして抜いて回ったり、特定の植物に手をかけて人間がいなければ生きていられないようにする。

畝を作り、品種を厳選し、間引きをしたり、農業、畑としては必要な行為であるけれども、

多様性という意味からすれば全く多様性ではなく専制政治そのものである。

しかしだからと言って雑草を放置すれば虫は寄ってくるし作物は採れない。

人間も飢えるし生きるためには多様性を損ねないとやっていけない。

何でもバランス感覚に沿って意図する育ち方をするように、不自然にならないように、と自然に言うのが正しいのかは自分にはわからない。

家庭菜園をやっているけれど、自分は非道い独裁者でしかないという自覚をもってやっている。

そういう意味では自分は多様性なんて言い張るのも名乗るのもおこがましい。


人間には安易なレッテル貼りをしないように、先入観やスティグマが歪んだ方向に進まないように、

発達障害の当事者からすれば障害という言葉の時点で多様性とは何かを突き付けられるような毎日になってしまうので、

発達障害という言葉を安易な差別や罵倒のための用語にさせないためにも、

多様性とは人を傷つけるためにあるのではない、ということを念じてやっていくしかない。

少なくとも侮辱や断罪のために言葉を使うのは多様性ではない。貶すことによって多様性を段々と狭めていき正常の範囲が段々と狭くなる。

そして社会の全体がじんわりと生きづらい、息づまる雰囲気が形成されていく。

正常の範囲が狭まるというのは多様性とは相反する事柄である。人がそのままにあることを許可していないのだから当然である。

障害あるいはそれに類する単語ばかり増えてそれをスティグマや簡単な罵倒のための単語として使っていけば、

いざ自分が病気や怪我で障害者になったときどうするのか。罵倒や侮辱の言葉を自分にも平等に浴びせることができるのか。


世界はもっと幅広くありましょうということに異議はない。

もっと世界の幅を広くしろよ、と何でもない人々に向けてケンカを売りに行ったり、

売りに行った結果をたしなめられてギャーギャー叫いてさらに偏見が酷くされることを愁うものである。

誠に遺憾である。