「ダスマン」というのは、ハイデガーの言うには「生きる事と死ぬ事に目を背けてなんか生きている人」みたいな意味であるが、
要するに「生老病死」から目を背けて何をしてるんだお前、という仏教的な事にはならないだろう。
ただ、没個性的に、享楽的に、その日を気ままに過ごすだけでは哲学にも、そもそも思想にもきっとお近づきにはなれないだろう。
大半の人はまあ、ないならなくていいとは思いますが。哲学というのは鎖です。一生樽の中で過ごさなければならない課題です。
そんな重荷を哲学者は簡単にその辺の人に背負わそうとするわけである。重いと言われたら確実に重い。
そんなけったいなもの、何もなくても生きていける、目の前のことが大事だ、と言えばきっとそうである。
哲学どころじゃない、という様々な事情や不可抗力で何も出来ない人を私は見てきた。
旧約聖書のコヘレト書に曰く「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増す」とあるように考えれば考える程ドツボにハマる。
しかしそこを敢えて踏み抜くのが哲学者の哲学者たる所以である。
ニーチェの主要な思想は知らなくてもいいかもしれないが、ニーチェの生き様を知らないようでは困る。
下手に言葉を尽くすより生きている事そのものが哲学になりうる。
他の哲学者にしても大体哲学以外の何がどうしてそうなるのという人はよくいるので、暇があれば『哲学者の生涯』みたいな本を読んでみてもいい。
もっと時間がなくてもWikipediaでも調べれば割合簡単にその辺の情報は入手できると思う。
個人的にはニーチェもそうですが、キルケゴールとかシモーヌヴェイユとかも似たオーラを感じる時がある。
入門書をざっくりと読むことは哲学を分かることであって、哲学自体じゃないんですけどね。
流石に概論と雑略で分かったかな、と言われても困るので、誰か一人か二人に絞って一冊でも著者に体当たりするのが現実的と言えるだろう。
それだけでも「ダスマン」からは簡単に脱客できる。言葉と言葉が頭の中で相互に体当たりしてぶつかり合えば単に生きているとは言わない。
飯がうまい、も、あいつむかつく、も、大谷の今日の打席はどうだった、も、なんかその時の感情とか義務感に流されていないか、
などと思っているから私はそんなに近寄りたくはない。もっとするべき事が他にあるだろう。
それで私などは世間のことは世間が片付けてくれると思って自分の頭の中で済むことを延々と済ませてきた。
阪神が優勝したことをのぞいて世の中のことは過度に追いかけても人と同じものしか得られない。
自分だけが受け取れる果実はいくつあるだろうか。知性を鍛えることはこの手段を増やす事である。
そのために世間は猛毒であると認識し、完全ではなくても適切に離れておかねばならない。
政治家の裏金がああだこうだと腹を立てても投票以外に何ができるか。俺ならできるとSNSの中に突っ込んで論戦でも繰り広げるか。
しかし人とぶつかっていると、人に勝つための議論の種、都合のいい情報しか齧りたくなくなる。他の事を考える余裕がなくなる。
ではそうやって言い争いをしている自分の中の本当の自分とは何であるのか。そこを自覚できなければ喧嘩の為に生きている、
「ダスマン」の変異系みたいなもので、自分が死ぬことなんて隅にあればまだ良い方で、頭に血が昇る限り生死のことは忘れ去られてしまう。
私自身が私に向き合わないで一体誰が自分と向き合えるのであろうか。主体として自身が考えていることを漏らさず他人には伝えられない。
落丁もあれば乱丁もあり、誤字脱字も遠慮なく紛れ込んでくるから、そんなものを人に任せても「細かいことはわからない」と返されるだけである。
自分の頭の中のことは自分にしか出来ないが、それを忘れて誰でも知りそうなことに関してああだこうだと始末のない議論に明け暮れる。
「生きている私」と「死ぬべき私」を何処かにやって無くしたものは、本当に生きているのであろうか。
私を生きる事は私にしか出来ないのに、他人にも出来そうな事ばかり取り組んでいないだろうか。
世間の風潮はもう世間の風潮以外の何物でもない。なんかその辺の人が勝手に進めてくれる。たまに乗る必要はあるが四六時中のる必要はない。
メリハリをつけて、自分の事だけを考えることができる時間のない人間は往々にして不幸であると私は考える。
だって世間に生かされているが、自分が生きているわけではないから。
誠に遺憾である。