何で我々は生きているのでしょう。問うたところで答えは出てこない。おんなじ問いを死ぬまで続けなければならないのである。
不毛、といえば間違いなく不毛である。何の因果でこの世に生を受け、何のために消えていかねばならぬのか。
富めるものも富まぬものも何一つとして変わりないこの生と死という現実にうちしひがれた時人間は無力になる。
この世に並ぶものなしとされた権力者も凶弾に斃れあるいは戦禍の中で命を落とした。
人間の存在自体が宇宙という流れに仇なすものなのであろうか。それともそれも自意識過剰な単なる思い上がりか。
科学技術は進んで医療技術が進歩していっても未だに人間の心は救えない。カウンセリングとは一体何を救うのであろうか。
思い上がりは続々と生まれ果てることはない。芸能人や著名人に対する言葉の石礫が日常茶飯事のように飛び交い空中を埋め尽くす。
まるでこんな世の中に生きている事が罪悪であるかの様に。
人間は罪深い、悔い改めよ、という宗教の人々のいう言葉はあながち間違いではない。罪こそが人間である。
この渦の中に巻き込まれるならば存在しない方が平和なのかもしれない。悩み事をしなくていいというのは実に救いである。
流動的に巻き込まれて生きる事は明らかに人類の、生命の不幸である。何故か知らないが生きなければならないという事ほど不幸なことはない。
こんなバラバラに適当な事を書き連ねた文章でも見る人によっては希死念慮でもあるのではないか、と考えるのは間違いではないだろう。
そこまでして何故人間は生きなければならないのであろうか。誠に遺憾である。