病院に行って発達障害の診断が出るまでは普通の仕事をしていたので、
協調性がないとかもっと話をするよう努力しろとか話す力を鍛えろとか言われるのは日常茶飯事であった。
仕事を辞めてから診断が出て、自分の症状を発達障害の専門書とか医学の発達障害を扱っている部分に照らし合わせて読んだら、
どうも個人の努力や知識だけでは何とかならない部分の方が多いとなった。つまりは無駄な努力、ということになってしまうのである。
一番苦手な分野を無理に底上げするなら、伸びてるところを伸ばした方がいいのでは?などと思いました。
出来ないところを無理に努力した結果精神が回らなくなりより一層悪化したとか実際にあったので本当に出来ないのだろう、と思った。
他人とのコミュニケーションの事ですが。
でもまあそれが根本的に出来なければ実際障害ですよね、とは思う。実際生活に支障が出たり、仕事も結果がほとんど出なかったりした。
そして人生そのものに疲れる。
話は間違いなく悪いが知的障害のある人に知性が必要な仕事を任せますか、と同じ意味で、
コミュニケーション能力がない人間にコミュニケーションが求められる仕事を任せますか、と聞けるようになってもあながち間違いではない。
仕事が複雑化し何にでもおまけでコミュニケーション能力が求められるような情報化社会では間違いなく不適応を起こしているが、
話さなくても何とかなる仕事を見つけなければこれから先自閉症スペクトラムの将来は真っ暗である。
いくら人員不足でどんな人材でも活用するとしても限度というものがある。
通信なんて切った状態でトラックの運転でもやれれば、とか考えたが問題は自分の運転技術がひどいことである。
普通車を運転しても文句を言われるのである。ましてやトラックを運転するなんて、もうハンドルを握る前から結果は明らかである。
でも自分の世界に打ち込めることが出来る場所がないととても全力は発揮できない。
人間関係が致命的ならばメンター以外に話す相手がいなくてもいいような状況、
最小限のあいさつと定時の報告だけで、雑談等会話を抜きにしなければ、意図しない話ばかり振られて本題が進まない。
僧侶が壁に向かって座禅しているところに人が無断で入ればその人が邪魔者であるのに、
日常生活では壁に向かっていたら無断で文句やクレームをバシバシ言われて挙句に壁に向かっているのが悪いと言われる。
我々自閉症スペクトラムにとっての適材適所とは一体何であるのか。
誠に遺憾である。