昔は私も『正論』を読んだり色々した時期もありました。何だかんだあって全部やめましたが。
なお私は戦えません。戦わないのではなく戦えないのです。意志的に戦えないのではなく能力的、障害的に強引に後ろに下げられる方の人間です。
意志的に出たくても障害があるので国際法とか軍事の法に引っかかり強制的に避難する、させられる方の人間です。
それがいいのか悪いのかは知らないが、勝手に前線でパニックを起こすような奴を連れて行ったらどうなるかなんて、
火を見るより明らかでしょう。戦場に行くことは可能だけれども戦場に行った後のことは知らない。
志願しても病んでる奴ははじかれるような世の中であった方が賢明だろうと思う。
そもそもここで言う「祖国」とはどのような範囲であるか。
政治的な祖国か、風土的な祖国か、精神的な祖国か。
日本国、という国が存在するとして、国体を堅持し、現状を一つも変えられないように戦うのか。
自分の住んできた風土、景色、家族、思い出を壊されないように戦うのか。
自分を育んできたこれまでの歴史、精神、哲学、様々な思想、そういうスピリット的なもののために戦うのか。
それだけでも「祖国」の意味合いは大きく異なってくる。
どれを守れるか、どれを守り切れるか。大戦で敗北したこの祖国はGHQの介入を許し、
政治的に解体再構築され現在に至る、とか書けば政治的な祖国の意味が大きい。
だがそれが全部ではない。祖国というフレーズが実に曖昧であるからこそ、幅が大きすぎて、
別に守りたくない物のために戦うなんてとんでもない、とか言い出したりもする。
ところで戦争という物は起こしに行くものだとは限らない。起こされもするものである。
ウクライナとかガザ地区とか中国の少数民族の話を聞けばまあ一方的な理由で戦争を始めてやらかすものだと思う。
拮抗した戦い、押したり引いたりではなく、本当に圧倒的な戦力差、ワンサイドゲームである場合、
本当に戦争と呼んでいいのか疑わしいものだが、勝手な理由でもあればこちらの意思に構わず突っ込まれる、
そのような国や地域があることは疑いようのない現実である。
確かに根拠もなく戦いをするようなことはいけない、しかし根拠なく突っ込まれることがないとは限らない。
自らの意思にかかわらず攻め込まれたときに我々国民は戦えるのか。
また防衛の意識を醸成するような国民の教育、道徳の育成などもキチンとやってきたのか。
「我々は繰り返しません」から我々は何を学ぶことが出来るのか。
巻き起こした戦争は過ちであるかもしれないが、巻き起こされた戦争は政体に過ちがあったとしても、
国民自体に過ちはない、そうなったときに武器を手に取れるのか。
私は持病のために強制的に隔離避難させられる立場だが、それでも出来ることはやる。
何も前線に立つことだけが戦争ではないのです。銃後の守りも適切に行うこともまた戦いなのです。
別に銃だけが、殺傷能力があるものだけが武器ではないのです。
武器がなければペンを取ればいいのよ、と私などは思う。戦う精神がなければそもそも戦うことは出来ない。
後ろで厭戦的な空気をまき散らせば何が戦いなのかもわからなくなるだろう。
勝ったか負けたかは政治のやりとりだが、実際に戦地に立つのは国民そのものである。
国民が機能せず逃げ出せば政治があれこれ言うことすら何の意味もない。
戦う国民を支えることもまた国のために戦うことなのである。ただ前線にいないだけの話である。
それとも兵站すら無視して逃げ出しますか。
わざと負けるように戦うことをする人間を、足を引っ張る人間を、祖国のために戦うとは言わない。
いざというときに一致して、戦闘員非戦闘員に関わらず、
団結して出来ることをする、それが祖国のために戦うということである。
それが出来なければ、誠に遺憾である。