古本屋巡り、と言っても棲家が田舎なので本屋の存続すら危ぶまれる様な場所なので、
古本屋に行く事自体が楽なことではありません。冬になると同時に雪に閉ざされるのであんまり動きたくない。
従って雪が降る前に仕上げるべきものは仕上げなければなりません。
そして田舎なので古本屋といってもBOOKOFFしかありません。誠に遺憾である。
他の地元の古本屋とか全部潰れてしまいました。TSUTAYAもねえ。GEOもねえ。ファミコンショップもおんなじだ。
街の本屋なんて普通の本ばかりで私が読みそうなマニアックな本がないので勝手にBOOKOFFが行先になる。
ちゃんとした本屋にもたまに行きたいが一時間近くかかるので余裕がないと行けない。
まあ、行けたら一万円くらい一気に使うのであんまり頻繁に行くようなものではないですが。
そんなこんなで定期的にBOOKOFF含めたリサイクルショップ巡礼に出かけますが、
今回は今までかけらも見なかった金槐和歌集とか西行和歌集とかあったので衝動買いしました。
なんか和歌集って衝動買いといえるものなのか、には些か違和感がありますが欲しいものがピンポイントであったのでしょうがない。
色々な俳句や短歌の本を読んで勉強していますが、古今和歌集とか新古今和歌集とか実際に読んで勉強しているにも関わらず、
私の短歌は大体石川啄木みたいになります。別に分ける必要がなくても勝手に三行にするくらいに石川啄木です。
俳句なんて月並な、ちゃんとした人が見たら凡作みたいな風景を写生した(つもりの)俳句が山ほどできますが、
短歌はどうあがいても石川啄木です。現代短歌に片足ともう片足を半分ほど突っ込んで、内心を描写しすぎてくだらなくなります。
俳句と短歌の作風が違いすぎて同じ人間が詠んだのか、時折自分でもこれでいいのか、と思います。
なお自由律俳句を読むと尾崎放哉に確実に近づきます。要するに一首一句の長さに応じて言いたいことと人格が変わるような感じです。
ちなみに字数に囚われずに詩を書くと確実にヴィジュアル系、密室系の詩が出来上がって実にMUCCです。
そこに立原道造が中途半端に加わってドス黒いソネットが完成するわけです。
元夢烏(メジャーデビュー直後くらいまで)なのでどうしようもありません。
そしてそこからどうして今年から俳句や短歌を詠み始めたのかもさっぱりわかりません。
十割くらいインスピレーションの仕業だと思うようにしてます。誠に遺憾である。