あくまでも誤ったセールスポイント | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

自分を「売る」とか、商品価値を上げるとか、人をもの扱いする経済マナーの本が気に入らない昨今、

精神主義では飯は食えないと思いつつも、さて実際に妥協しただけで生きていけるかと言われれば、

やっぱりそんな気はしない。

しかし、形式的、そして形骸的なマナーの上っ面を学んで、精神、内面に思いの至らない人は正直に気に入らない。

尤も私の精神主義の行先は孤立主義、隠棲主義なのでまず世間の価値観と相容れないことは解りきっている。

では、一体私は何の何処を妥協させるべきなのか。

そもそも人の生活を浸食するような企業風土が気に入らない自分に、企業の何が気に入るというのか。

大分けったいなことを考えている自分がアウトサイダーだということは千も承知である。

しかし、自分の長所を長所として生かすことを考えないで滅私奉公することに何の意義があるのか。

当然、世間的には妥協しなければならない場所は少なからずあるだろう。

しかし全身全霊を擲つ必要性は感じられない。

企業に改造されながら生きるとか、企業に延命装置にさせらせても困る。

少なくとも能力ではなくて協調性を重視するとか、出る杭は打たれるとか、

そういう風土を何とかしなければおちおち生きてもいられない。

障碍者と呼ばれる時点で、もう既に杭は出過ぎるほど出ている。打ち込まれない方が可笑しい。

 

別に(必要以上の)金を稼ぐことも、社会で安定した位置にいることも必要なことではない。

自分が自分であることが何より大事なことである。

協調性のある人であれば、他人との関係性に意義を見いだすかもしれないが、

自分のような人間は協調性がないと嫌でも自覚せざるを得ないから、

他人に出来るだけ迷惑をかけないようにするためには協調性を最小限発揮した上で丁重に孤立する方が精神的に健康である。

必要最小限の理解者が数人いれば、あとは適宜放っておいてくれて一向に構わない。

むしろ放っておいてくれ。

無理矢理出る杭にされた挙げ句打ち込まれるのは勘弁である。

数ある疾病の中で精神、特に発達障害の割合が増えたのは、協調性や社会性というような、

産業が発達してから必要になった要素が増えて嫌でも目立つようになってしまったからだろう。

 

他人の喧噪を聞くぐらいなら、たとえ下手でも自分のギターをつま弾いて、ゆっくりと自分の世界にひたりたい。

しかし、普通に働いてそれば叶うかと言えば、おそらく普通中の普通では無理だろう。

どうしても協調性を強調する価値観が支配する社会で個人を過度に尊重すれば蹴り出されずにはいられない。

本当にやりたいことを完全に保証するとすれば社会からはみ出した状態でなければ実現できない。

何と悲しく、クレイジーなことか。

模範的なフレーズを繰り返すだけの空しい蓄音機が鳴り響いている限り、

いつまで経っても価値観の変換が図られるはずがない。

とか何とか言いながら普通の仕事をやっていたら、見事に自分が普通ではないと診断され、

自分がひっくり返されるという事実に出くわしたわけである。

 

そもそも高度経済成長期と、現代の考え方が同じで、そのまま事が通じるとは思えない。

旧い革袋に新しい葡萄酒を入れても、袋は破けるだけである。

そしてそういうことは本気で新しい革袋を作るつもりでやらなければ、協調性の網に囚われて終わる。

空気が読めないのが底ではなくて、底を突っ切るような何かが必要なのである。

空気が読めないのは「常に」いけないことだという価値観から、まずは突っ切らなければいけない。