私が哲学倫理学を学ぶのと並行して宗教学、というか様々な宗教の啓典を読んでいたが、
イスラム教に関してはコーランは比較的手に入れやすいし大学生の時に読んであるが、
実際の生活においてコーランと並んでイスラム教の生活で参考にされるハディース(言行録)に関してはそもそも見ることすらままならない状態であった。
自分もコーランをボロボロになるまで読んだ後、ハディースを何年探したかわからなくなったし、
その間に教養的な意味で放送大学のアラビア語の初歩みたいな講義に出て単位を取ったり、
色々周りからは理解し難い行動を頻繁に行いましたが、
この間用事があって出かけた先の大きな本屋に行っていつもの通り岩波文庫の青の本を眺めていたら、
「ムハンマドのことば」という見慣れない本が置いてあってその下にハディースと書いてあったので激ヤバ即ゲットしました。
自分の一族の中でも私は不可解な行動に定評があるとはよく言われますが、私は自分の知識欲に忠実なだけです。
興味のあることについて知らなかったり知ろうとしなかったりするのは恥に近いものがあります。
スーパーやデパートなどでハラールフード(イスラム教の禁忌ではない食べ物)を取り扱う場所が増えたり、
国際空港や大きな施設でも各宗教に応じた礼拝所ができるなど、イスラム教に関することに対して無関心では済まされなくなりつつあります。
無知は罪である、とソクラテスが言ったが、知ろうとしないことはさらに深い罪である(こちらは誰が言ったか忘れました)
あらゆる世界と情報が接近しつつあるのに無関心では無作法になってしまう。
ある行動については因果があるのに、ニュースなどでは結果だけ知らされるから因果が見えない。
一つの結末に繋がっている糸のような線が網目のように繋がっていても、
知らなければ因果と認識されないのであればできる範囲でも知るしかない。
どうあがいても手に入らない秘伝や理由があるならやむを得ないが、目に入るものは目にしなければならない。
たとえ自らがどのような境遇に置かれようとも、そこだけは背いてはいけないものであり、
私が私自身に対して課するべきものなのである。
なおハディースと一緒にニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』とか『悦ばしき知識』なども買って帰りましたので、
人生とは不可解なものであります。不可解ではありますが、生きている限りは学ぶしかありません。