私自身、宗教に関しては勧誘とか(される方)でいろいろトラブルが起きて他の人が介入するレベルになったため、
記憶している限りで宗教的によい思い出というものはない。無宗教に近いと言われたら否定する気もない。
酷い目に遭ったら次は避けようと思うのだが、いかんせん他人との付き合いのレベルが異常に低いというか、
社会的な振る舞いに支障を来しているレベルの自閉症スペクトラムと診断されているので、
無難にとか流れとか臨機応変に人づきあいの流れを避けるということが困難である。
よって原則論で避けて逃げて防御態勢をとったままでいなければならない。
ただ、こういう行動に出ると、いざ宗教的に困った時に誰に聞けばいいのか、
葬式仏教化しているお寺にもそう簡単にも聞きに行けず、
簡単に聞きに行こうとして出来るのは大体新興宗教、どれが本物か偽物かもわからない。
どうして宗教で博打なんてしなければならないんですか、と、
宗教に関する喜捨とか寄付金とかに関わる事件の話を聞く度に思う。
心の救いにどうしてお金なんてかけなければならないのか、と金のない身分の人間は思う。
別に好きで身分を明かしたくもないが、明かしたら障害者という身分上、それはそれで手をかけられるのだろう、
とか思うと、放っておかれたい人間としては安易に宗教の方にも近付いていられないわけで、
結果的に自然と勝手に無宗教に近くなってしまうのです。
そうでなければ泥沼にはまるかして抜け出せなくなってしまうだろう。
両極端な特性、というものは大体そんな感じなのだと自分を見ながら思います。
結果、本屋に出かけて行って宗教についてあれこれ論じた本とか、岩波文庫の青いやつを買って帰り、
家で読んでなんとなく分かった気になるのが限界です。
まあ、なんとなく分かった気になろうとして選択した本が聖書とかコーランとか仏教経典の邦訳とかなのだから、
脈略のなさで言えばある意味頭のネジが外れているとも言えます。
たとえどれだけお堅い本を読んでも、自分の理解を超えたところがあったとして、認識、把握できなければ存在しないと同じだから、
様々な本を読んで個人的に理解したことが私にとっての宗教なのです。
知識の流れがグルグル回ってマニ車を回したような感じになれば個人的にはそれでOKです。
知識の流れの中には書籍代以外のお金の流れはありません。実に平和です(意味不明)