ごく自然に社交と趣味を削る | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

別に新型コロナウイルスが流行したから、というわけではないが、人と交わるような趣味は極力減らして過ごしている。

社交性とか協調性とか要するにコミュニケーションの障碍である広汎性発達障碍を抱えている人間が、

人と交わるような趣味を増やしたとしても、人との軋轢を生むか、とにかく他者とのトラブルというか、

あとは自分が精神的なダメージを抱えるだけ抱えて終わるだろう。

 

飲み会とか俗にいう飲みニケーションという場とかに限らず、

自分はあらゆる社交的な場に出すような人間ではない、というのは自覚しているので、

三密とかパーソナルスペースとか言われなくても他人と勝手に距離を取るような自分の心情には、現在の風潮というのはプラスである。

自分が社交下手だと分かっていてわざわざ処刑されに行くようなことをするだろうか。

誰も守ってくれないというか、守られるまでの人間関係構築にも問題が出てきそうな人間に安易に人間関係を勧めるべきではない。

一人が精神的に良い、と断言するにはそれなりの理由と必然性があるのです。

自分も他人も不快にしない、とか限りなく可能性を追い求めるならば、人との接点自体を減らすより他はない。

そして減らしたことによって良心の呵責に苛まれたり、孤独感を募らせるということもほとんどない。

それ回避性パーソナリティ障害とかスキゾイドパーソナリティ障害じゃないの、とか言われる覚悟、というか自覚もありますが、

今ってパーソナリティ障害と自閉症スペクトラムの診断って並立するんですかね。

とにかくコミュニケーション能力の不足によって様々な問題が出てきて自力で対処しきれなくなったので、

僅かな社交性ごとゴミ箱にぶん投げて人と離れた場所にいたくなるような気分になるときが多々ある。

極力人間関係を自分から疎外して、可能な限り引きこもった生活スタイル、というともう正直精神に何か抱えているだろう、

とか言われるのだろうが、実際抱えているのだから仕方がない。

 

そんなので趣味活動なんて出来るの、とか聞かれるような気がしてならないが、一人でやれる趣味さえできれば大して困らない。

自分から人間関係を捨てているような人間が人間関係を求める趣味をするはずがなかろう。

日がな読書とか音楽活動(鑑賞・演奏)とかゲームとかの見聞を深めていけば勝手に時間は過ぎる。

スポーツとかも水泳とか卓球とか出来る限りシングルで何とか出来るものを選んでいる。

間違っても集団競技は選ばない。今まで球技という球技でどれだけの事をしでかしたか記憶にないくらい事故をやらかした。

というかコミュニケーション能力がただでさえ低いのに、身体能力も致命的に低ければスポーツなんて本当はやるべきではない。

しかし健康維持のためにある程度身体は動かさないといけないから、記録も関係なく一人で出来ることをしなければならない。

数ヶ月近くで過ごせばこいつ何処かおかしいとか、精神医学の知識がなくても怪しいと空気で察せられるレベルである。

そんなやつを他人の中で動かしてもそういうやつにしかならない。悪目立ちしかしない。

劣悪な経験を繰り返せば同じような経験なんてしたくないと思うだろう。

結果的に自分は一人でいるほうが、一人でこなすほうが自然だと何よりも感じるのである。ある意味必然である。

頼りたくもなければ、頼られたくもない。というかそういうしがらみが一番鬱陶しい。

その鬱陶しさを趣味に活かせば、一人でチマチマやることをやったほうが何よりも自然である。

先述のように新型コロナウイルスで人との関係性をなんとなく希薄にできる環境が出来たから、出来ればこのままでいいなどと思う。

密になる以前に人間離れしていれば、新型コロナウイルスのリスクを考慮する必要もない。

ある意味人間性の対極にいる存在だろうとまで思う。

 

ただ、たまに遠くに行きたくなる時がある。自分のことなんてだれも知らないような場所に行けば、

積み重なる人間関係もなく、最低限のマナーさえ守れば、数日、数時間の、空気がかすめたような程度の関わりで終わることが出来る。

遠くに気軽に行けなくなったことだけは自分にとってマイナスなのだろうと考える。

勝手に積み上がる記憶さえなければもうちょっと気楽に生きられるのに、とか変なことを思う今日この頃である。