障碍者の「問題提起」とは | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

障碍者の中には「あえて問題を起こすことで世間に対する問題提起をする」などとのたまう人もいるが、

自分のような障碍故にあえて、でなくても問題を起こすことに心底怯えている人間には、

肝っ玉が座っていると言うか、よくそんな事ができますね(How dare you)とか、

要するに勝手な真似をするんじゃない、とか思うわけである。

できないことは確かにできないが、できないということを声高にアピールすることで、

援助する心理的なハードルをかえって高めてしまうのではないかと危惧する。

無人駅に車椅子を運ぶ装置がないなら前調べして手配するのが筋と言えよう。

何か同じようなことで、四肢欠損の身体障害者が「レストランの階段を登ることができない!」とか、

不随の身体障害者が「飛行機の搭乗に使う階段が登れない!」だの、聞いた気がする。

前もって情報を仕入れ、下調べをしていればどうということはない問題を、

勝手に拡大して、勝手に問題の幅を広げ、勝手に問題という名の石を投げて去っていく、

障碍という名を隠れ蓑にした単なるクレーマーだろう。

実際その話を報道で目にしたときはため息を漏らしたものである。何故そんなに出っ張らなければならないのですか、と。

 

自分が社会参加、とか言われてもなんとなくためらってしまうのは、そうやって石を投げる意志がないにも関わらず、

行動の結果として結局石を投げるような結果になってしまうことを恐れているからである。

体なら動かない部分をカバーできる何かがあれば結果を伴うことが出来るが、

精神は補助具も何も得られないので全部自力でなんとかしないといけない。

心の松葉杖とか、心の車椅子とか、心の自動昇降装置、などという甘いものは存在しない。

それでも補助が得られそうなところならば恐らく補助は受けるだろうし、前もって不備がないように調べておくだろうし、

そもそも自分の社会性からして危険な場所には近寄らない。

「君子危うきに近寄らず」とは言うが、障碍者ならなおさら近寄らないほうがいいだろう。

 

専属のメンターとかパートナーとかがいて、個々の障害に対して、いついかなる時も必要な場合にも、

必要なだけ補助が受けられる体制があるならばいいが、

三百六十五日二十四時間そんな万全の体制でいるというのも不可能な話である。

しかも福祉関係をやったことのない人間に丸投げしようとか、厚顔無恥にも程がある。

風上に置きたくない。同類と見られると恥ずかしい気さえ起きる。

自分の協調性とか社会性も本当に大したことがないのに、そういうふうに考える、要するに限度を超越している、

どうして波風立てないと生きていけないのですか、と診断前まで散々波風立てて周囲を荒らしてきた自分が思う。

一部の我が侭で全体が崩壊するようなものを福祉などとは到底言えない。

確かに障碍者は社会的弱者である。だからといってそれを錦の御旗にしたり免罪符にしたり、

この紋所が目に入らぬか、などという倒錯した行為に至っていいはずもない。

もう自分がいることで場が荒れるのは嫌なので、おとなしく引きこもったり、出ていく場所を減らしたりしていますが、

公共の福祉とかあれこれ考えても、どうしても自分がそこにいる必要がなければ、

本当に出るべき場所ではないのである。

プライベートでは音楽活動とか色々やっているが、結局音楽活動しかしない。

渉外とか、打ち上げとか演奏前後のコミュニケーションとかは極力しない。

したらしたで大変なことになるし、酒の席なんてまずろくな事になりはしないだろう。

自分の社会性が貧弱なのを自覚すれば、まず出て良い場所と良くない場所を決めておくのはむしろ当然であると言えよう。

精神と言うか発達に問題があるならば、それ相応に動くのが道理というものである。

そこからはみ出ようとするのは、身も心も動かないのに何も補助具もないまま、

無理やり地べたをはいずりながら極地を進むようなものである。無謀としか言いようがない。

当然そんなあらゆる意味で危険な行動なんてしないほうがいいのはわかりきっている。

だからこそ、なぜ最初に書いたような「問題を起こすことで問題提起」のような詭弁が押し通るのか、

首を傾げたあと嘆息して、途方に暮れるしか無い。しなければいいことを何故するのか。

私などしたくもないことを勝手にやってしまうというのに。

 

問題なんて起こさないほうがいいに決まっている、と私は思う。

しかし目を瞑れ、耐え忍べ、というわけではない。

問題提起を行うにも、礼儀と作法とTPOとが必要で、声高に文句を言ったり、騒ぎ立てるのではなく、

地道に要望書や地域の生活の上で声を届けることが品格にもつながると思うのである。

勝手なことをされて障碍者のイメージが下げられては、後で痛いしっぺ返しが来て、

何の関係のない同じような障碍者が故もなく巻き込まれてしまう。

人の庇護がなければ生活もままならないような人間が何を言うか、と自分を見て思うけれども、

やっぱり物事には礼節が必要だ、ふさわしい態度と知識でも身につけておかねば結果無礼になる、と思いました。

「エゴのために騒ぎ立てるような真似をしよう」などとは心底思いませんから。