節分に恵方巻きを喰らう、何事の不思議なけれど | 隠者の庵

隠者の庵

自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

昔は無宗教を名乗り、無宗教、無神論の名に一字一句違わぬ生活をしよう、などという、

非常にアナーキーな生活を送っていたこともありました。

最近はイベントに便乗するだけ便乗して、娯楽分だけを吸収し、

それで心の調子が良くなるのであればそれでいいかな、とか思うようになりました。

それよりもっと昔は出家とか寺に行くとか割と考えていたのですが、ある日吹っ切れて、

『正法眼蔵』と『神は妄想である』などというもう何を考えてその本を一緒に読もうと思ったのか、

でも読む、などという生活を送り、案の定禅と無神論が混じり合った混沌とした精神状態になり、

なにか変なものが心のなかで目覚めたような気がします。

 

ただ言えることは、世間一般の物事については相変わらず興味が持てない、

所々掻い摘んで、そして何事もなかったかのように去っていく。

できれば人は巻き込みたくないし、巻き込んで慰謝料とか求められても厄介なので、

もともと薄っぺらい人間関係をローラーで引き伸ばして、後ろが透けて見えるぐらい薄く伸ばしました。

おかげさまで年賀状も廃止しましたし、その他礼状やら季節の挨拶やらを送る関係もなくなりました。

SNSは使いこなしたくない、というか意図的に使い方を学んでいない。

周りはLINEとかで話をするけれども、別に自分にはなくても特に気にならない、

むしろ来てくれないほうが返さなくていいので有り難い、何も求めていないのでLINEで文章も送らない、

Twitterには鍵をかけておいたり、ゲーム機のアカウントでもフレンドを一切作らなかったり、

まるで孤立することに誇りでも感じているような、他人からは理解し難い生活を送っております。

近くの人間、私個人を知る人間からは適宜忘れ去られて、誰かもわからない人間に向かって、

此処に書いてあることをぶん投げるような、

人間関係を積み上げることを全く期待していない私生活を日々送っております。

人間って疲れるんですよ。ある意味憑かれてもいますが。


人間関係を求めないという意味では、個人の商店よりも大規模なスーパーに紛れ込んで、

恵方巻きを探し、行列を崩さないように歩き、適宜自分が食べたいものを買って帰るような、

生活圏にいるようでいないような生活を真面目にこなしたいと思っているのであります。

私がやりたいことに関して、一緒に盛り上がる人は極力少なくしたいし、現在は虚無である。

変わったやつ扱いされて関係内に留められるよりは、吹っ切れて元からなかったことにしたい。

一般人になることに失敗した今となっては、もう偏屈さを極めるより他はなく、

自分が自分らしさを保ちながら突っ切る方向性というものがないのだろうかとまで思う。

流石に行政の手続きで誰かの協力が必要、と言われたらそこだけ何とかしますが。

福祉に両足を突っ込んでいる以上、完全に孤立することは無理である。

それでも可能な限りは虚空を漂っていたい。