母校というもの | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

私は、自分が育ってきた学校、あるいは同じ時間を共有した同輩などに、それほど思い入れを感じなくなった。学校が無くなったと語られても動じないだろうし、たまたま会う人が自分と同じ学校なんですね、とか言われても、何を言っていいのか私には判別がつかない。同じ学校の出であることと、私自身の信条とに何ら関連するものがなければ、結局何の興味もないまま、話をスルーしていくことだろう。
そういえば、同窓会の話も聞いたこともない。昔一回出たことがあっただけで、それ以来何の音沙汰もないが、だからといって便りが来ないことを別に気に留めているわけでもない。別に便りが来なくても、私には何も困ることもない。むしろ、いきなり便りが来ても冷静に欠席に丸をつけて送り返すだけである。もう別の世界の出来事かと考えているのかも知れない。先日にも自分の恩師が亡くなったのだが、だからといって別段自分でこれをした、ということもなかったし、嗚呼、自分は本当にこの世に無関心なのだな、という思いを強くした。もちろん葬式にも(実は自分と同じ町に住んでいたのだった)出ていない。昔のことは昔のことであり、ある意味で名前だけを記憶に留めて、その他のステータスは別段どうでもいいようになっている。

 

小学校も、中学校も、高校も、大学も、ある意味では履歴書を書く時にふっと思い出しておくだけの存在になっているのかも知れない。あの頃の思い出に感傷的になることもなく、従って思い出話に花を咲かせるということもないし、まず思い出を語るような人がいない。作ろうとも思わない。今から無理をして同郷の士を捜すにも無理があるし、そこまで労力を払って得られるものが自分にとって意義のあるものとも思えない。そもそもこんな内容の文章を書きでもしなければ、きっと記憶の倉庫の中のハードケースにでも封をしてしまわれていることだろう。今のことに集中していると、案外過去のことをはっきり思うようなことも少なく、思い出すように自分を誘導することもない。

 

だから、昔はよかった、などという思い出を捜すことも、自分の中ではなかなかやらないことである。昔よりも大切な今がある、と言えば語弊があるだろうが、昔のことにかまけているのも、何かうじうじと思い悩んでいるようで、嫌らしい。定職が無くても、することが無くても、昔を思い出すことは本当に何処に行ったのだろうか、と思うぐらいに思い出せない。何か、自分がこれから死んでいくことの方が大事に思えて、もう昔など振り返っていられないのかも知れない。ただたまに、自分の協調性のなさの証拠を見つけるために、過去をあら探しするようなことはする。そうすると、あっさり証拠物件が見つかったり、それを動画形式で思い出したりして、結構自己嫌悪に陥るのである。だからといって思い出すのは個々の行為であって、別段学校の思い出について特段意識するわけでもない。やっぱり、過去のことは、過去に何処に所属をしたのかについてはどうでもいいのである。

 

だから、最近は誰かが自分はここの出だとか言う人を意識しないようにしている。得てしてそういうのは、過去の栄光に縋り、自分を良く見せようと欲を張っているのである。私の出た学校も、決して悪い学校ではないらしいのだが、そんな事は私の形成に関してあまり関係ないと思えば、別段語る理由もないのである。