大体「生きるとはなにか?」と考えながら生きると、この世は急に鬱屈としてくる。
特に将来に展望がそれほど開けなくなってからは一層心に堪える。
鬱病とか新型うつ病とか、人は簡単に言うけれど、
憂愁の血というものは死ぬまで自分自身から離れないものであります。
人は死ぬから不安になるんじゃないのか、と思うと、
生そのものが根源的な不安であるとしか言いようがなくなります。
すなわち、死が開放になる、と。
正直人間に無条件に問えるような生きる価値、というものは客観的にはなく、
主観的にどう価値を作るか、その価値の中で生きていくか、というものだと思います。
自分さえ認められなければ消し飛ぶような自我しかないのを必死に支えるのが生だと思います。
そうやって考えて生きてきて、自分が自閉症スペクトラムだと解って、
例えば高校生や大学生のときに、福祉施設の研修に行って、様々な障碍者を目の当たりにして、
障碍者にぶつけた「一体この人にとっての生きる価値とは何なのか」という問いが、
自分が障碍者になることによってきれいにブーメランとなって帰ってきたわけであります。
脳天直撃、としか言いようがありません。
まあ自分は生きている間にゲームがどれだけ進化するのとか、
パソコンの技術がどこまで発展するのを見届けたり、
ギターの発展する余地はどこにあるのかを見極めた上で死ぬのだと思います。
家庭とか家族という、特に下の世代への概念が希薄な精神障碍者という生は、
開き直って自分を生きるより他に道はないだろうと思います。
恒例行事もあと何回経験できるのだろうととか思ったら、というか思うより他はありません。
共感、という感覚が希薄なのだという現状で、他人と感情を共有できるような感覚が本当につかめないと、
自分が自分で価値を見出して生きていくしかやりようがないのです。
たとえそれが他人から見てどれだけ馬鹿に映ろうとも。