よくよく考えれば、自分はずいぶん寛大に育てられたものだと思う。
当事者の中には親に恨み辛みのあるのを隠さない人もいれば、
存在しないものとして扱う人もいる。
どうしてこんな風に産んだのかとか詰問すれば波風は立ち、
良好とか質を問う以前の険悪な関係に陥る。
多分、「どうして」を問えば不毛な関係になってしまうのだろう。
障碍というものは本当に取り返しのつかないものであるし、
責任や謝罪や賠償を求めればきりがない。
しかし、そこで他人を安易に批判してしまえば、一番大事な関係を失うことになる。
当事者も親を恨んでいても始まらない。
一番顔をつきあわせる可能性の高い保護者を抜きにして、
円満な人間関係を解決することは、ほぼ不可能であると思う。
ただでさえ対人関係に躓きやすい広汎性発達障碍の人間は、
最初の関係を築くことができなければ、他の人間と関係を築こうとも思わないだろう。
信頼を築こうと思えば他人を批判してはならない。
冗談が通用しない人間に他人の中傷を聞かせれば、その言葉通りに受け取る。
親が他人を信頼していないことを許せば、子供も他人を許せなくなる。
自分の両親は共働きだったので、
こう、仕事の愚痴とかを頻繁に聞かされなかったのがよかったのかもしれない。
感情を前面に出すようなタイプでなかったのもよかったのかのしれない。
これが感情の波を表に出し、凸凹がはっきりしているような状況であれば、
人間嫌いの程度も本当に深刻化して何も信じられなかったかもしれない。
今でも殊更に声を荒らげて子供を叱る親を見れば、自分は眉をひそめることになる。
「それは少なくとも人前でやるようなものではない」と。
他人の前で尊厳を傷つけられれば、叱られているのを見ている人間は信用しなくなる。
叱られる側のプライドはズタズタになる。
思えば自分が叱られたのは、大体親子だけになったときであった。
そのこともあってか、感情を表に出して行動する人間とは今でもそりが合わないだろうと思う。
合わせれば大体胃が痛くなる。
感情の波のある人間というのは、一定のパターンがほしい広汎性発達障碍当事者にとって、
どこから何をどうしていいかわからない「得体の知れない怪物」のような存在である。
わかりやすい関係を築かなければ、本当にわからないだろう。
感情を扱うというのは本当に難しいことである。
自分が不器用であることを理解した後は、本当に親というものが、偉大なものであるように思える。
自分はとても、ああはできないだろう、と。