世の中には「発達障碍者当事者なら相性がいいのではないか」という言論もみられる。
自分がこの界隈に属してもう十年ぐらいにはなるだろうが、
その意見は大方間違いなのではないかと思う。
仲のいい人、よく話す人だけを見れば、確かにそう思うかもしれない。
同病相哀れむ、ではないが、確かに相乗効果というものあるとは思うのである。
しかし、健常者と同じように合わない人も存在して、
その場合の相乗効果(当然マイナス)も同様にあると思うのである。
当事者の会合にもあれこれ参加しているが、新しく現れた人がもういなくなっていた、
というのも何度目にしたか解らない。
大体こだわりが許容範囲を超えるか、自分のこだわりに反するか反しないかで、
相性というのが解りやすく決められる。決めてしまうともいう。
まあ当事者の会というのは自分の場合「場が設えてあるから参加する」のであって、
こう、真剣に障碍からの救いを求めるとか、というのは自分の信念と異なる。
そんなことよりもロクにできない世間話をする方がいいとまで思う。
そういう些細なことで話が成立しなくなるので、実際当事者の会というのは、
そんなに人の集まりがよくなかったりする。
発達障碍者というのはどうしても少数者になってしまうので、
どうにかして頭数を揃え、まとまらなければ意見も通らないとは思うのだが、
信念が強固すぎて人も集まらない。
白か黒のどちらか、で分けられるものを、自分も敢えて灰色に分けようとは思わない。
そんなこんなで団体はできるが、団体の思想によって集まるので、団体同士の相互関係が深まらない。
たとえが悪すぎるが、アメリカのような団体もあれば北朝鮮のような団体もある。
そういう自分も街の障碍者センター主催の会合には参加するが、
私企業の相互扶助とか自助団体には所属していない。
行き場所が増えるとそれはそれで面倒くさい。
人間関係を保持できる力というのは、おそらく自分が思っているよりも少ないだろう。
それに忠臣は二君に仕えず、と言うじゃないですか(意味不明)
それよりも一人で心を落ち着けられる時間を確保することの方が急務である。
話し合いはたまにしかないほうがいい(譫言)
一人でいる時間を確保できてこそ、集団の中にも入ろうとする気が起きるものである。
常に人の間にいるのは針の筵に座るようなものである。
兎角此の世は生きにくい。