自分の病識、と呼べるものがあるとするならば、
間違いなく「他者と大きく行動や性質が異なること」が本質であるから、
そもそも自分には普通、と呼べるべき普通は存在しないものと考える。
発達障碍者の中にはその普通にとらわれるあまり、
普通であることに異常に執着したり、異様なまでに行動様式にこだわる、
というような行動がみられ、実際思いっきり社会の壁に衝突するまで自分もそうであった。
自分で「この壁は越えられない」という認識があって初めて、
もしかしたら自分はおかしいのではないか、という認識に至るのではないかと思うのである。
衝突するまでは越えられるものだと思って接するので。
そこで自分と他者はそもそも異なるものである、という結論に至らなければ、
檻の中で延々ともがき続けるような苦難の連続が待っているだけだと思う。
普通という枠にこだわり、いかに滑稽な状態に陥ろうとも「普通」であろうとするように。
普通などという誠の中道と呼べるような存在は本当は存在しないだろう、
と思えるまでにも越えなければならない壁はあるものだと思っている。
だが、普通という壁は普通を疑うよりも高い壁なのである。
ない普通をあるかのように扱うことは、実際誰もがやっているのかどうか、
ちゃんと処理できる人は普通の範疇にあるのだろうと思うが、
普通をどのようにしても得られない人は、もう普通ではないのである。
そしてその一部は障碍とも呼ぶべき状況になっているのである。
そういう人間が普通を追い求めることは、もはや強迫観念と化し、自らを苦しめるのである。
でも普通でなければ生きている価値がないと考えるように、なってしまう人もいるのである。
兎角此の世は生きにくい。