障碍者に必要なのは健常な謙譲の精神 | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

自分が障碍者として生きる時間が長くなるごとに、
人間として増長してはならない、と強く心に戒める。
生きていること自体が迷惑なのに、勝手に迷惑さを増強されて、
勝手に他人を振り回さないと生きていけないようなものになってしまったからには、
もう思い上がりという概念をことごとく捨てねばならない。

少なくとも車いすに乗って航空会社に迷惑をかけるようなのになってはならない。

障碍を盾にあれこれ言うのは、真心と思い上がり、どちらが正しい表現だろうか。
敢えて障害、という表現を使わずに障碍表記にしているのは、
あんまりマイナスばっかり投げつけられるのもどうかと思ってやっているのだが、
周囲に迷惑をまき散らす人間は障害者だと言いたくなる。
漢字にしないと通じないのは、そこはまあ、ブログという敷地でやっていることなので、
ご勘弁いただきたい。

誠実さが障碍の有無で大きく左右されるわけでもないし、
卑屈さも(精神の障碍の程度にも関わるのだが…)そこまで大きく左右されるわけでもない。
ましてや、障碍をいいことに都合よく振舞うとか、
人を罵倒することの免罪符に使用するとか、とにかく利己的なのは、
障碍の有無にかかわらず断罪されるべきであるだろうと思う。
だから自分は世間に出たくない、と事あるごとに口にするのですが。
あんなのと一緒にされたくない、という意味でもあれば、
自分が自覚しないうちに色々なことをやらかしてきたからでもある。

人に本質的に迷惑をかける、かけざるを得ないのが障碍者のある意味辛辣な本分である。
その自覚を抜きにして何の権利向上とほざくか。
迷惑をかけることを思えば、人に対して丁寧に、そして尊厳をもって接しなければならないのは、
障碍者だからこそ明白だろうと思う。
障碍というラベルを悪用する方向に向かえば、それはラベル全体の損害になる。
終いには余計に迫害されるオチまでついてくるだろう。
そんな単純なことも解らないのか、と敢えて言いたくもなる。

弱者というのは根本的に免罪符にはなりえないのである。
社会的弱者にやさしくという概念がなければ通用しないものなのだから。
そこを踏み間違えて一体何をしようというのか、私は理解に苦しむ。