連帯感というものがない | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

生まれてこの方、全部ではないが、連帯感というものがつかめない。
未だにつかめない。そもそも連帯とはなんぞ。
連帯とはなんぞとはなんぞ知る。

学級活動、サークル、会社、作業所、思えば色々な場所を渡り歩いてきましたが、
集団であるという意識はそれほどなかった。
組織の細胞の一部として出来る事をやっていればとやかく言われないと思っていた。
ただ「連帯しろ」と無闇に言われたりしない場所の方が居場所として適している、とは
漠然と感じている。

自分の進む道すらぼんやりとして見えていないのに、一体他人に何を指し示すことが出来るか。
暗澹たる闇の行方のみを推し知らせるだけである。
そんな未来のような形をした暗闇に人を誘導したいなどと思うか。
周囲の人と繋がっていると言われるネットワークが見えないのであれば、
やむを得ず見えない前提で振る舞うしかないのである。
そんな連帯感は果たして連帯と言えるものなのだろうか。

世の中、もうちょっと単独であることの意義を見出せるような、
そんな流れを主流でなくてもいいから、
あると言うことだけでも指し示して頂きたいものである。
そうでなければ、将来はぼんやりとした不安とかが支配する状況になるだろう。
贔屓目に見てもとても充実するとも思えない。

まあ、少なくとも言えることは、どうあがいても団体行動に向かない人だっているんですよと。
サッカー、バレーボール、バスケットボール、そういうスポーツの空気が読めないからこそ、
自分はもれなく浮くのである。
当然連帯が何を意味するのか、スポーツの中でも判別出来ません。
最近やっている競技はほとんど個人種目であるので、
意欲面からしても連帯はしたくないようである。

まとまることが、連帯することが利益であればそうするとよい。
ただ自分がそう感じられないだけの話である。