「出生率の低下」とか「高齢化」とか「非婚化」とか叫ばれるたびに思うのは、
次の世代に何かを遺そうとする人のみだろうと思う。
逆に言えば次の世代に残すもののない人間の考える問題ではないと。
結婚しなければ結婚について考えなくともよいし、
子供を産まなければ子供について考えなくともよいし、
あとは自分がいかに自分であるかを、老いつつ、死につつ見つめるだけである。
自分を見つめるだけである。
極論を言えば親も子も自分ではない。自我は自己にしかない。
その自己がいずれ消えて無くなることを問題にしないで、
一体何をどう問題にすればいいのか。
後に残る問題は、他人が増えるほど複雑化し、そして解きにくい。
そしてそれは自己の問題ではない。
子供の意識を乗っ取ることでも出来れば、永続的に思惟を重ねることに意義が見出せるかもしれない。
しかしそれは無理であり、かつ子供の人権を侵害している。
子供は私自身から見れば自己ではない。
自己ではないからこそ厄介なものなのである。
そこに自分を投影させるようなことをさせるから、所有物だ何だ、などという詭弁が後を絶たないのである。
子供が考える事は子供が考える事である。親の考える事ではない。
そうやって考えたら勝手に動くものは自分の目の届く位置にはない方がよろしいかと。
そして自分を見つめるだけに集中するのである。