慣用句が元の意味で使われなくなったり、誤用する割合の方が高くなったりすると、
それを嘆き始める人が出てきたりするものだが、
そんな事を言っていたら今の書き言葉なんて一番やったらいけないことではないか、
と思ひたり。
いにしへより言の葉ありて、人それを確証無く使ふ故に、方言が生じ、地域差が生じ、
気がつけば文体そのものに大きな変化が生じ、
つひに『竹取物語』や『源氏物語』さへ、「現代語訳」無ければ読むこと能わじ。
まこと嘆かわしき御事かな。
嗚呼、言葉はあめつちを動かす程のものなりて、しかし、時と共に移ろふものである。
一時の意味の取り違へで天地を動かせば、数多に移ろふ言葉の数々、
いにしえの意味にて万事取り扱わねば、
天は裂け地は割れ、一瞬にして世の中は灰燼と帰すべし。
ああ、ゴキブリはゴキカブリと読むべし。いとおもしろき言葉の綾なり。
うつくしきはうつくしきと解すべし。現代における「美しき」とは異なるものなり。
とか訳の解らないことになるんですよ。文語調にしようと思って今すぐ出来るものでもないですし。
数十年でも使いつづければ言葉の意味なんて世代に応じて変わっていくものである。
どうしてもっと長い時代の言葉の誤用を嘆かないのであらうか。
「一番最初に使われた言葉の意味が正しい」とは、要は「太古に戻れ」と言っているようなものである。
ある意味原理主義である。「石器時代にしてやる」ようなものである。
古文が読むのが当然のレベルとか、結構過酷なことを言うものだと思う。
言葉という器は、常に同じ酒が注がれるにあらじ。常にその日の酒が注がれる。
古ければはらわたを壊し、和を乱すものなり。
嘆くのも構わないが、それで言葉の本質は糾されるものなのであろうか。
今使っている言葉の意味が、その場にいる人に伝われば、それはそれでよろしいのではないか、
昔の意味と今の意味が共存したとしてもいいし、数世代後に同じ意味を保っていなくても、
それは古典が今の世にほとんど読めないものとなっているのと同じで、
単なる時代の流れで流してもよいのではないか、とさへ思ふのである。
慣用句が時勢の流れにそぐわずに使はれなければそれまでのことである。
使はない言葉の意味をなにゆゑに覚ゆる必要があらうか。
言葉は何時使うのか?今でしょ!(ネタが古い)