続・障碍者スポーツの祭典(但し精神抜き) | 隠者の庵

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自閉症スペクトラム(広汎性発達障碍)当事者が気ままに壁打ちで文章を書き連ねます。
あと趣味についても適当に書き連ねます。何故か見た夢も記述します。

ぶっちゃけもう精神のないスポーツ大会というのは見飽きた。
まあ精神の中には本当に外に出したらいけないレベルの人が一定の割合で存在するとは思いますが、
それは知的も身体も同じ事だろうと思う。
どうしてこんな仕打ちを受け続けねばならんのです。

というわけで、まず大会から遠ざけられると同時に、
練習する機会までも遠ざけられているのが現状である。
知的や身体であれば特別支援学校(或いは学級)の繋がりとか、
まず障碍者スポーツに参加出来るという時点で、
何らかの人脈、組織の繋がりがあるものだと思う。
しかしそもそも参加出来るカテゴリーもない精神だと、
まず障碍がいつ発現したかから問わねばならないので、
そもそも学校とか集まる機会からしてないものである。
ついでに、障碍者同士の繋がりすら希薄なのである。
個人的にはベタベタした繋がりはそんなに有り難くないと思っているのだが、
それはある程度そんなに構わなくてもよい柔らかな繋がりがあるからだと思っている。

簡単に人脈の築けない人々の繋がりを保つためにスポーツというものは有意義だと思うのであるが、
本当に精神は何処でどう繋がればいいのか解らないから困る。
そして繋がっても参加出来るものがないから猶更困る。
自己満足で終わればそれでいいのであろうか?スポーツをやっている以上、一応誰か相手を見つけて、
何かをやってみたいと思うことはきっと出てくるはずである。
しかし、その場所が存在しないことが、どれだけQOLの充足を阻害するのか。

実際に(結果を問わず)やってみることが出来る事と、やることさえ出来ないのは、
余りにも溝が深すぎると思うのである。

健常者に揉まれないで済むような安全地帯が、スポーツの世界には存在しないということが、
一体どれだけの負担かつ苦痛を生じさせるのであろうか。
普通に健常者とまともにやり合えるのであれば、それは障碍ではない。
本当にアレな状態であるからこそ、障碍は障碍なのであるが、
自己を発現出来る場所(スポーツ大会)が精神にないのは本当にどういう考えなのだろうか。