夏の暑い日に頭を若干フラフラさせながらトイレに向かうとき、
人は一体何を見るだろうか。
一目で視認できる色が大事ではないだろうか。
記号としての解りやすい色づけを目印に、人は目的地まで駆けつけるのである。
さて、そのようなイメージがある程度固定した後に、
その色を逆転されたら一体どうなるだろうか。
具体的に言えば男性と女性のトイレの色を変えられたら、
本当に駆け足で駆け抜ける人間のある程度はそのままいけない壁を越えかねない。
本人の意図と関わらず。
個人的には同じ色でも十分解りづらい。
「ちゃんと」わいせつ罪にならないようにトイレに入るのに修練がいるような世の中は嫌だ。
個人的な好みで色を選ぶのは、それはもう好きにすればよい。
「ランドセルの色が…」とか「服の色が…」とか、やりたいようにやればいいのである。
だが、ある程度公衆に染みついたイメージというのは、ガラッと変えると混乱するのである。
ちょっと前にあった自転車のあれこれのように。
特に選択が時として即罪を犯すようなことになってしまう類の場合、
本当に慎重に、場数を踏みつつ徐々にやっていかねばならないのである。