私自身が障碍や障碍者福祉についてあれこれ自己記述するとき、
既に話の前提は、健常者という立場からそれているので、
そもそも考え方が健常なのかどうかも解らない。
公的にも私的にも大体医者から診断が降りた時点で、
少なくとも自分は「健常」という衣を脱ぎ捨てなければならなかったわけである。
その代わりに、少し言論が暴走してもお目こぼしをもらえるような、
そういう微妙な感じになっているが、それこそ自分が普通を捨てたという証拠なのだろう。
既に話の前提は、健常者という立場からそれているので、
そもそも考え方が健常なのかどうかも解らない。
公的にも私的にも大体医者から診断が降りた時点で、
少なくとも自分は「健常」という衣を脱ぎ捨てなければならなかったわけである。
その代わりに、少し言論が暴走してもお目こぼしをもらえるような、
そういう微妙な感じになっているが、それこそ自分が普通を捨てたという証拠なのだろう。
主体的に「私は健常である」ということだけなら出来る。
しかし自分の客観性は、それこそ客観的に「発達障碍」という診断を受けた、
一つの事実で呆気なくひっくり返るのである。
事情を知っている人にはまず通じないだろうし、
知らない人にも言動の怪しさから、発達障碍という言葉ではないけれども、
日常的な感覚の違いから、違和感を感じることになるだろう。
「常識的な感覚」が異なっているのは解るが、
そのような微細な違和感を、自分で感じる事が出来ないのは辛い。
そして知らぬ間に、醜聞は広まっていくのである。
こういう時の客観性とは本当に酷である。
しかしそれを敢えて公開することによって、
言えることが若干オブラートにくるまずにいうことが出来るというのは
何とも皮肉なことだろうと思う。
しかし自分の客観性は、それこそ客観的に「発達障碍」という診断を受けた、
一つの事実で呆気なくひっくり返るのである。
事情を知っている人にはまず通じないだろうし、
知らない人にも言動の怪しさから、発達障碍という言葉ではないけれども、
日常的な感覚の違いから、違和感を感じることになるだろう。
「常識的な感覚」が異なっているのは解るが、
そのような微細な違和感を、自分で感じる事が出来ないのは辛い。
そして知らぬ間に、醜聞は広まっていくのである。
こういう時の客観性とは本当に酷である。
しかしそれを敢えて公開することによって、
言えることが若干オブラートにくるまずにいうことが出来るというのは
何とも皮肉なことだろうと思う。
同じ事を健常者の立場から言っても、「空気を読め」だとか「意識が足りない」とか
色々貶されるだろうな、とは思うのである。実際そのように言われてきた。
だが異常が明らかになった以上それが「現状治らないもの」である限り、
私はこの立場から脱することは出来ないのである。
従って、ある程度その立場に立脚したり、寄り掛かったりして、
代償としての自由を手に入れなければやっていけないのである。
言わないで黙っていることも、価値があることなのだろうとは思うが、
障碍というのは、どうしても少数派に属さざるを得ない。
健常者と呼ばれるものが多数派である限り、日陰者であらざるを得ない。
万が一障碍者が多数を占めるようになれば、価値が転覆されるだろう。
少数派であることに立脚するからこそ、
自分の発言にも多少価値はある(と思い込む)事が出来るのである。
健常者であれば、その他大勢の人に押されて、
そのまま多数派の渦の中に飲み込まれてしまうだろう。
そういう意味では、自分が少数派であることに、若干の意義は感じている、と言えよう。
それが本当に利点であるかはともかくとして。
少数派だからこそ、少ない人数の代弁者(かなりの驕りであることは確実であるが)として
何かを言うことに意義がある可能性が、健常者よりも大きいのではないだろうか。
だからこそ、言わねばならないことは言うし、言わなければいつまで経っても始まらない。
違うからこそ、言わなければならないことも、少なからずあると思うのである。
しかし、その立場は、先述のように発達障碍が治療可能にならない限りにおいて、
脱却することの出来ない立場である。治ればまた多数派の渦の中で言論をしなければいけないが、
きっとここに書いてある言葉の大半は、治った時点で息を失っていくだろう。
身分や立脚点が、完全に違うからである。
色々貶されるだろうな、とは思うのである。実際そのように言われてきた。
だが異常が明らかになった以上それが「現状治らないもの」である限り、
私はこの立場から脱することは出来ないのである。
従って、ある程度その立場に立脚したり、寄り掛かったりして、
代償としての自由を手に入れなければやっていけないのである。
言わないで黙っていることも、価値があることなのだろうとは思うが、
障碍というのは、どうしても少数派に属さざるを得ない。
健常者と呼ばれるものが多数派である限り、日陰者であらざるを得ない。
万が一障碍者が多数を占めるようになれば、価値が転覆されるだろう。
少数派であることに立脚するからこそ、
自分の発言にも多少価値はある(と思い込む)事が出来るのである。
健常者であれば、その他大勢の人に押されて、
そのまま多数派の渦の中に飲み込まれてしまうだろう。
そういう意味では、自分が少数派であることに、若干の意義は感じている、と言えよう。
それが本当に利点であるかはともかくとして。
少数派だからこそ、少ない人数の代弁者(かなりの驕りであることは確実であるが)として
何かを言うことに意義がある可能性が、健常者よりも大きいのではないだろうか。
だからこそ、言わねばならないことは言うし、言わなければいつまで経っても始まらない。
違うからこそ、言わなければならないことも、少なからずあると思うのである。
しかし、その立場は、先述のように発達障碍が治療可能にならない限りにおいて、
脱却することの出来ない立場である。治ればまた多数派の渦の中で言論をしなければいけないが、
きっとここに書いてある言葉の大半は、治った時点で息を失っていくだろう。
身分や立脚点が、完全に違うからである。
現状、自分の言葉は、決して多数派の立場に立って、言っているのではない。
だから説得力も怪しいが、別に相手に完全な同意を求めているわけでもない。
言いたいことを、常識や慣習にくるまずにきっちりと自分の言葉で伝えることが、
自分にとって立場を利用した言論なのである。
実に「障碍がある」と認められることは、明確且つ重大な違いである、と思わざるを得ない。
どうしようもないものなのだが。
だから説得力も怪しいが、別に相手に完全な同意を求めているわけでもない。
言いたいことを、常識や慣習にくるまずにきっちりと自分の言葉で伝えることが、
自分にとって立場を利用した言論なのである。
実に「障碍がある」と認められることは、明確且つ重大な違いである、と思わざるを得ない。
どうしようもないものなのだが。