この間、店でレジ待ちをしていたら、後ろから「ちゃんと待っていなさい」とか声が聞こえたので、
何となく後ろを見ていたら、色々と察しなければいけないような感じになっていた。
要するに、別に要しなくても、何かの障碍があるだろう、と、
心の機能の読み取りが弱い自分が察することが出来る程度には。
これで人間が平等と言えるのだろうか、本当に考えられるだけ理不尽だ、
と首をかしげる日々である。知覚する以前に、何らかの大きな前提があって、
その前提のために平等という結果がひっくり返される。
かくいう自分も不平等のあおりをもろに受け、その辺を七転八倒しながら彷徨っているが、
未だに行く末が見えない。まあ、誰にも見えないのだろうとは思うが。
目に見える、どうしても目についてしまうような明らかな障碍と、
何となく感じる若干の違和感が、実は障碍に基づくものでした、とか言われるのと、
救いがあるとすれば、どちらなのだろうか。現状到底救われていませんが。
そもそも救いって何だろう?幸せであることは、不平等であることが前提でも成立するのか?
定義できる幸せは本当に幸せと呼べ得るものなのだろうか?
私はその答えを知らない。