かなり流行から遅れた気もするが、最近暇つぶしにYoutubeをみて、
N村議員の動画にはまった。
ああいう理想じみた大言壮語を垂れ流すような過去が、自分に無かったとは言えない。
診断が降りるまでは、それなりに自信もあったし、自負とかプライドとかも間違いなくあった。
もう今は、そういう虚栄心をそぎ落としたような生活になっているし、
そのような生活しか出来ない身の丈である。
人格が診断前と135度(わざと)ぐらい変わったような生活をしているが、
昔の肩肘張った生活が、やはり身の丈に合うとは思えない。
対処方法を学んでも、何とかならないものが多すぎたと、今更になって思う。
成人になって発達障碍の診断を下されるというのは、悔しいものである。
しかし、下された以上はある程度受け入れるしかない。
「社会においてその症状が社会適応上問題になっている」現実があったからである。
「それさえなければ…」と思うことはあるが、大分諦めた。
むしろ思わないことにした。思えば心の棘に引っかかり、感傷的な気分と、
それからフラッシュバックの種を発掘する羽目になる。
挫折、というにはあまりに大きすぎる壁だと思うが、
幼少時、それらしい挫折を経験せずに、一応ギリギリで何とかなる程度だったために、
ある程度まで健常者と併走してエンジントラブルを起こして離脱、という事態になったわけである。
初めから「そういうもの」が解っていたら、恐らく対処の方法も違っていただろう。
惜しむらくは、発達障碍の存在をまあ「多少自分と似ているな…でも違うか」で済ませてきたことである。
まさかここまで社会とソリが合わないとは思わなかったのである。
「まさか自分はこういう事は…」ということを見過ごして、
思いっきり落とし穴に入る人だけは減って欲しい、と自分は思う。
合う合わないについて、自分自身を知ることが遅れたのは痛恨の極みである。
ただ、あまり掘り返すと精神的によくないので、この辺にしておく。