「俺の墓標に名は要らぬ」というか、
墓標が要らない。
「私」という意識体としての存在が消えた時点で、
既にこの世には何も証拠を残せない状態である。
別に生きた証拠を残したとしても、
それは「家」のものである必要もない。
こうやって文章を遺したとしても、
それは家に集約されるものではなく、あくまで個人の活動である。
「私」であった物体に一体何の価値があるのか。
文章を紡ぐでもなく、生活を行うでもなく、
そして表情すら何もない「物」に。
読めるものでもなく、観るものでもなく、
語ることも世代を経るごとにその内出来なくなる物体。
一体どんな価値を見いだせというのであろうか。
人間は、地に還ることすら出来ないというのであろうか。
人間とは、何とも不便な存在である。