世の中の人は言う、
「他人の痛みがわかる人間になりなさい」と。
自分の場合、共感性がないことを前提にしている部分もあるが、
知覚出来ない痛みは本当に痛みなのか?と思ってしまう。
自分の痛みにはちゃんと「痛み」という単語が配置されていて、
状況に応じてどのような痛さかを言葉によって説明することも出来る。
しかし、本格的に見えもしない聞こえもしない「痛み」は
何処にあるのだろうか。
まずは物理的な「痛み」について考えてみる。
私が素手で人を殴ったとして、自分の腕の物理的な痛みはわかる。
しかし、相手に与えた衝撃による痛みは、
別に皮膚が接触して解るものでもないから本当に解らない。
個人の状態あるいは言動を通じて理解出来るのは、
あくまで外見的な状態(意識の有無や出血の多少、あるいは創傷の有無)であって、
内面的な状態について人間は理解出来るような状態ではない。
怪我については命に関わる部分もあるから、手当てをしなければいけない。
意識がなければ本格的に危ないので救急車を呼ばなければいけない。
しかしそれで「痛み」について理解しているということになるのであろうか。
危機的な状況で「痛み」を認識して救急行動に出るわけではない。
生命の危機だとは思うが、痛みより先に直すべきものがあるから、
痛みについて気が及ばない。
肉体的な「痛み」については傷などによってまだ想像しうる現象があるが、
心の「痛み」なんて本格的にどのように知覚すればいいのか。
どの言動が人を傷つけるなんてのは、偶然突いたツボが効果があったみたいなもので、
どの言葉が人を奮い立たせるのか、あるいは「痛み」を引き起こすのか、
人によって様々な違いがある。共通項はあったとしても、
万人が万人に共通する心の「痛み」というものは、
せめて人が亡くなった時の気持ち位なのだろうか?
私が「頑張れ」と言われた時に「どうすればいいのか解らない」という
心の「痛み」を引き出す、などと語ってしまえば、
ついに誰も何も言葉を発することが出来なくなるのではなかろうか、
などと思ってしまう。
そもそもこの文章の意味しているところが解らない、という理由でも、
心の「痛み」であるということを否定出来る確証はない。
心の傷は、そう「ある」と宣言したものの勝ちである。
その瞬間「お前は人の心が解らない奴だ」という
心の「痛み」を反撃する手段に大抵出ることになる。
結局どう足掻いても「他人の痛み」を理解することは
根本的に不可能なのである。
何故人は「他人の痛みを理解出来る」などと
無責任なことを言って憚らないのだろうか。
それこそ私にとっての心の「痛み」である。